<<人間>>**人間**(序)

2012 年 6 月 13 日

  一応、人間とは、先祖があり、祖父母あり、両親がいます。
そうですね、先祖から、遺伝子を受け継ぎながらで、両親の交わりによって「「此の世」」に生まれて来ます。
いや、生まれてくるのですが、父親の[{種}]の数は何億と有るものです。
母親の卵子が一つです。
そんな、{{生}}を受けついだ二つの物が合体してから、人間となって此の世に誕生してきます・・・。

  これは、少しながら言葉を使いますが、「「因縁」」と言いますね。
そう、「「因縁」」の言葉を使いましたが、不思議な男性と不思議な女性の合体ですから、不思議な「「生命体」」が新たに、出来上がるものです。
不思議な「「因縁」」ありて、不思議な「「宿命」」を受け継ぐものです。
此の世に誕生する人間について、好きで好んで喜んで楽しく{{此の世}]に生まれたのではありません。
人間って、生命体ですし、私と言う人間は、決して、好きで好んで自分の希望で「「此の世」」に現れたのではありせんね。

  この事については、どんなに真剣に考えても、どうにもなりません。
私が、喜んで、自分の意志で誕生したのではありませんから、少しくらいの({言い分})は有っても良いのでありませんか。
「「因縁」」も、たまたま、「「宿命」」も、たまたま、でしょう。
まして、「「運命」」も、たまたまと、好きでも嫌いでも、自分の、私の「「運命」」を担いで生きる事になります。
何で、私を「「此の世」」に産み落としたのか、どんなに考えても、納得がいきません。

  私は、今の親が嫌いなのです。
もっと、優しい美しい母親が、私は欲しかったのです。
何で、今のような母親と父親だったのか、私の{{言い分}}だってありますからね。
とにかく、人間として、「「此の世」」に産み落とされたら、仕方がありませんし、私の「「生命」」をキープするか、しないかだけですね。
「「人間」」について、記載するのは大変ですけれど、そうですね、あまりにも、簡単すぎでもあります。
だが、あまりに、簡単に記載しても、面白くもないし、読む人のためにならないでしょう。

  人間とは、地球上の[{生き物}]ですし、そう、自分が、私は、生きています。
それゆえに、色々様々な表現ができますし、地球上には、沢山の生き物がいます。
小さい生物から、そう、人間の目玉には全く見えない[{微生物}]なども生きています。
人間の眼には見えない[{生き物}]から~~~[{大きな生き物}]まで、色々と生き物が居ます。
悲しくても、嬉しくても、簡単に、自分の「「生命」」を抹殺するのは、大変です。

<<劣等感>>「「劣等感」」続編21

2012 年 6 月 9 日

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・

 この言葉を使って、説明しましたが、人間の「「欲望」」が満たせない場合では、「「劣等感」」にもつながってきます。
「「劣等感」」なんて、どんなに、「「金銭」」・「「名誉」」・「「地位」」なども、或いは、「「好きで愛する異性」」を得ても、「「驕り」」にもなりますし、「「驕り」」には、「「劣等感」」が関連している場合が、大変に多いです。

 「「劣等感」」を、持っている方が良いのでは、などと言う方達が時折に見られますが、絶対に、それは、無いでしょう。
「「劣等感」」を持った人が、「「劣等感」」から、解放された人でないと、理解できないかも知れません。
「「劣等感」」から開放された方々は、絶対「「劣等感」」は無い方が良いと言うでしょう。
全く悩んだ体験が、無いと言う方々は、案外と自慢をするでしょうが、その方々には他者の悩みを理解してあげる事は不可能でしょう。

 当方は、多いに悩んで欲しいし、そこから這い上がった人達には、上手に悩める方々を支援する力量を持っている可能性もあります。
あまりにも、己に「「満足」」と「「地位」」や「「名誉」」や「「金銭」」を抱えている方々には、悩める人達の{{こころ}}を理解しないので、その人達の傍で生活している方々は、大変に苦労するのかも知れません。
どうぞ、人間世界で生きる間は、「「劣等感」」を持たずに、或いは、「「劣等感」」について理解力のある人間になっておいて欲しいです。

 人間世界では、自分が一人で生きる事なんて出来ませんので、人間存在の学習もしておいて欲しいです。
此の世を生きている方達で、「「私には悩み」」なんかは全く無いと言う人が居れば、その方の方が少し変わった人間でしょう。
どうぞ、皆様方には、人生を生きるのに気楽に人間同士で仲良く生きて行ける事を希望しています。

 「「四苦八苦」」から、随分と「「話」」をしてきました。
この「「話」」は、本当に凄く大事だと考えています。
皆さんも、少しでも良いですので、学習をしてみて下さいませ。
誰もが、良い人生を暮らせますように、記載してみました。
随分と、「「劣等感」」については説明もしましたので、この「「劣等感」」については、この辺で,この項を終わりたいと思います。

 皆様方の「「幸せ」」を、祈っております。

<<劣等感>>「「劣等感」」続編20

2012 年 6 月 5 日

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・。

 そうですね、「「受」」ですか、人間の「「五感」」や「「六感」」が捨てられない場合では、「「色」」を捨てる事なのです。
「「色」」を捨てる事は、此の世に存在する物、{{生あるもの}}も{{生の無いもの}}も含めて、全部を捨てて下さいと言う意味ですよ。
でも、そんな事柄を言っても、絶対に捨てられないと言うのであれば、最初から、「「色」」は無いと考えて下さいと言うのです。

 簡単に「「色」」は無いと考えて下さいと言っても、難しいですよ。
そこで、「「色」」は無いと、人間の見ているもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、肌で感じるもの、全てのものは「時間と共に消えて無くなって行く」ではないかと、言っているのです。
確かに、此の世に存在する全ての物は、消滅してしまうのです。
一部の考え方ですが、此の世には「「真実に存在するもの」」が何も無いと言うのです。
「「真実に存在するものは、絶対に消えて滅する事は無い」」と言う考え方があるようです。

 そこで、人間が{{こころ}}を奪われている物事は、「「無い物事」」に{{こころ}}を奪われているのです。
どうして、そんなに消えて行く物事に、人間は拘るのかと教えているのです。
どうして、人間は「「拘り」」の{{こころ}}を持つのか、もう少し真実を熟慮して下さいと言っているのです。

 人間が「「拘る」」物事について、如何なる考え方を持つかどうかですね。
悩み苦しむ場合では、特別に「「うつ病者」」などで、物事に拘る{{こころ}}から開放されないので、悩み苦しみから逃れられないのだと、言う事もできます。
でも、人間の「「拘り」」は、面白いですよ。
人間って、面白いのですが、「「うつ病」」で死ぬほどに悩んでいても、私には「「悩み」」は無いと答える人達も、時折に、見られます。
そんな人達は、もう少しながら、自分の{{こころ}}に磨きをかけて欲しいものですね。
そのような、物事に拘り始めると、人間の「「欠乏欲」」は限りが無いと言います。

 「「欲望」」が深い人間ほど、{{悩み}}はつきまとうものです。
{{悩み}}から、開放されない限りに、{{こころ}}の病気から開放されないでしょう・・。
「「色即是空」」などと言う言葉は、素晴らしい言葉ですが、人間はなかなかと{{こころ}}について勉強をしません。
でも、少しながら、勉強をして欲しいものです。
「「色即是空」」→「「諸法空想」」と同じ表現でもありますし、「「色即是実」」=「「諸法実相」」とは、全く反対の考えもあります。

そう、楽しい嬉しい場合では、沢山と拘っても良いです。
でも、あまり沢山と拘ると、嬉しい物事でも、{{こころ}}が疲れます。

<<劣等感>>「「劣等感」」続編19

2012 年 5 月 31 日

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・

 そう、「「劣等感」」なんて、そのような{{感情}}から開放されるのは、本当に簡単ですよ。
もう少し説明しましょう。

 「「受」」について考えると、また、素晴らしい{{こころ}}の過程が有ります。
「「受」」とは、人間の五感を入れて六感も含めてみましょう。
人間の「「五感」」と「「六感」」、ですよ。
「「識」」を捨てるのが、無理だと言うならば、「「行」」を捨てる、「「行」」を捨てるのが無理ならば、「「想」」を捨てる、「「想」」を捨てるのが無理ならば、「「受」」を捨てるのです。

 「「受」」を捨てるとは、({眼})・{{耳}}・{{鼻}}・{{舌}}・{{身}}を捨てるのです。
でもですね、この「「五感」」だけでは、意味が無いですよ。
「「意識」」が無いと、人間の{{こころ}}と言うか{{感情}}の流れは、動かないのです。
「「五感」」と「「六感=意識」」が有ってから、人間の{{こころ}}の悲しいとか、嬉しいとか、立腹するとか、劣等感があるとか、驕りなどがあるとか、楽しみとか、嬉しさとか、そんな{{こころ}}や{{気持ち}}が動いて来ます。

 そのような「「五感」」や「「六感」」までを捨てれば、人間の「「悩み」」や「「苦しみ」」は無くなるのですが、・・・さて、皆様方は如何に感じるものでしょうか。
先ずは、「「六感」」を捨てれば、それだけで良いものでもあります。
でも、人間から{{こころ}}や{{感情}}を捨てるには、全く不可能です。
だから、「「六感」」を捨てるのが困難なら、「「五感」」を捨てて下さい、なって来ます。
例えば、「「見る」」事で、{{こころ}}の葛藤が増えるのであれば、「「眼」」を捨てれば良いですよ。

 こんな「「話」」もありますね。
「「自分の欲望」」が深くて、高齢ですよね、80歳までも悩み続けて来た人が、ある日、突然に、「「眼」が見えなくなったらしいのです。
そうすると、自分の「「眼」」で眼前の欲望をみたそうとしていた物事が、全く、どんなに考えても不可能となってしまったのです。
本人も、そんな不可能な事が、高齢者になって全盲になって自分の「「欲望」」の限界を知ったのです。

 同じですよ、ね。
「「耳」が難聴で聞こえない場合では、「「聞く事」」に諦めをつけなければならない。
「「鼻」」もそうですね、お料理でも「「鼻」」が無いと{{良い香り}}も無駄になりますね。
「「舌」」も、味わいが無理ですよ。
「「身」」も同じで、触覚が駄目になりますと、肌の触れ合いなどにも、人間の「「感じ方」」にも多いなる限界を感じて来ます。
どれ程に、人間は、自分の「「欲望」」を制御できるか、どうかでしょう。

<<劣等感>>「「劣等感」」続編18

2012 年 5 月 25 日

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・

 何度も、「「話」」をしますが、殆どの人達は、理解が難しいのかも知れません。
「「色」」が「「空」」になる過程を、今、話ました。
そこで、今、この過程、{{移り変わり}}に説明が必要だと感じます。

 『『五蘊』』の一番に最後の言葉ですね、「「識」」の意味は、認識するの「「識」」です。
眼前に、どんな良いもの、大好きなものが見えても、あまり欲しいとか嫌いとか、考えなかったら大丈夫ですね。
だから、拘る{{こころ}}は、認識の結果に現れる{{こころ}でしょう。
 そこで、眼前の物事にしろ、人間にしろ、認識しなければ、如何なる人達にも拘る
{{こころ}}は湧き出て来ないです。
悩むか、悩まないか、などの問題は、「「拘る」」事さえなければ、悩まないのです。
そのために、認識するのを中止すれば良いのです。

 認識するのを中止するためには、「「識」」を無くせば良い訳ですよ。
そう、「「識」」など持たないで、捨てれば良いのです。
「「識」」さえ持たずにいれば、人間は悩まずに生きる事ができますが、まあ、これは「「方便」」でもあります。
 そこで、「「識」」さえ持たずに、「「識」」を捨てれば良いのですが、でも、「「識」」は捨てられないと言うのであれば、そこで、「「行」」を捨てるのですね。
そうですよ。
好きだから近づこうか、嫌いだから離れようか、などと考える事が悪いのです。 
そう、考えると、頭の中で余分な思考が必要となり、マイナスの感情も動きますからね。

 そこで、「「行」」を捨てれば、自分の{{こころ}}}の動きは止まります。
だから、{{こころ}}の動きが止まれば、「「悩み」」や「「苦しみ」」や「「怒り」」などは湧き上がって来る事などありませんよ。
 それが、出来なければ、「「想」」を捨てれば良いのです。
何で!!!!,そこまで考えるのですかと言う方達も、確かに居るでしょう。
でも、現実に「「行」」が駄目なら、「「想」」を捨てれば良いでしょう。
そんなに言われても、そんなに簡単に言われても「「想」」までも、たやすく捨てるなんて
出来ないですよ。

 確かに、この通りに素直に従ってみるべきなのです。
{{想念}}を止めれば・・・、何も自分に降り懸かるもの、降り懸かる{{こころ}}なども
無いですよ。
 でも、{{想念}}を中止すると、人生の楽しい事柄も無くなってしまいそうですよ。
なんだか、凄く簡単な説明みたいです。
そう、人間の面白いのは、非常に簡単な事柄を明確にしないで悩むのです。
「「悩み」」や「「苦しみ」」や「「怒り」」から再生には、少しの勉強は重要です。