<<身代わり不可症候群>>身代わり不可症候群(追16)

2012 年 11 月 1 日

  では、次ぎに、「「愛別離苦」」をみましょう。
愛する人、物との別れは寂しいものです。
人間それぞれ、愛する人、愛する動物、愛する物事、誰も、{{時}}と{{場所}}を変えては、違ってくるものでしょう。

  最初に伝えますが、好きで愛して恋して、何時も一緒に時間を過ごしたいと思っている場合では、そのような相手との({別れ})は、大変に辛くて寂しくて、自分の{{こころ}}を我慢できなくて、({自殺})するような人達も居ます。
まあ、それほどに愛して好きで恋した自分の大好きで好きな({異性})が、居なくなれば、悲しいものでしょう。

  大好きで、結婚したり、同棲をしたりで、家族を形成しても、現在では、世界中で、夫婦の別姓で暮らしている場合が多くなりました。
それほどに、世界中では、人間の個人の欲望が強くなったのでしょうかね。
嫌いになれば、子供が居ても、夫婦が別れるなんて言いました、簡単に別れますよ。
それほどに、人間だけを考えても、異性を愛する{{こころ}}は素晴らしいのですが、一度でも、嫌いになりますと、もう案外と、人間の{{こころ}}は例外を除いて、元に戻らない場合も多いです。

  多くの場合で大変なのは、親が年老いて死亡する場合も、子供たちが納得できる人間であるのが、大事です。
医師としては、可能な限りの({施策})を考えて援助します。
人間は、必ず、年老いて死亡する({宿命})&({運命})&({天命})になっています。
でも、そんな運命を納得できずに、医師達の能力や技量によっては、何時までも、人間の({命})が有るものだと思うのです。

  「「愛別離苦」」などは、素晴らしい言葉だと感じます。
間違いなく、そうだと思います。
他人が持っているものを欲しがっても、自分の手元には入らないのです。
自分の手元に置いておきたいと、考えるならば、それなりの努力が重要ですよ。
また、{{運}}が悪ければ、どんな努力をしても、自分の思う通りにならないものです。

  愛人、好きなペット、好きな盆栽、好きなお庭、好きなスポ―ツ、好きな趣味、諸々の大好きな物事が人間には有るものでしょう。
動物でさえも、貴犬が死ぬ場合と、年老いた犬が死ぬ場合とでは、感じ方も違うでしょうからね。
「「愛別離苦」」などの、人間には大変な{{こころ}}が動いている事が分からないと、そんな気持ちも理解が出来ないでしょう。

どうぞ、相手の悩む・苦しむ気持ちを理解してあげて、相手の{{こころ}}の立場になってみる事、「「身代わり不可症候群」」にだけはならない事です。

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2012 年 10 月 31 日

  では、「「四苦八苦」」の中で、残りの「「四苦」」について調べましょう。
「「求不得苦」」の言葉があります、よ。
どのような意味かを、知っておくのが凄く大切です。
人間として生きるには、必ず、目前の物事を欲求します。
{{おもうがままに、ならなくて}}なんて言いますよ。
それでも、人間は、とにかく、365日間も、自分の欲しい物事を追いかけています。

  普通の方々は、ぼんやりと生きています。
勿論、当人にとっては、一生懸命に生きている積りでしょうが、人間世界での生き様は、誰もが、自分の欲求に押されて生きているのです。
自分の求める物事が、自分の好み通りに出来れば、此の世の中で、苦労する方達はいないですよ。
皆が、誰もが、それなりの苦労をしています。

  立派な自宅が欲しい、マンションが欲しい、大きな立派な自動車が欲しいなどと思っても、そう、簡単には、自分の思った通りにはなりません。
角度を変えますと、しばしばですが、人間は、先ずは「「金銭欲」」ですよね。
「「金銭」」が多かれ、少なかれ、欲しいと思うのが、人間でしょう。
「「金銭欲」」なんて、簡単みたいですが、大変なものです。
老いも若きも、「「お金」」、「「お金」」と、など叫びながら、毎日を生きているようなものです。

  次に、お話するとすれば、それから、余程の未熟者は別に置いておきますが、必ずや、「名誉欲」」と「「金銭欲」」とか、そのような物事を追い求めるものです。
最も、自分には、何も手元に入る程の努力は何もしていないので、贅沢な物事は諦めましたと、思っている人達は、まだまだ良い方でしょう。
でも、案外と、諦めた気持ちのわりには、小さい細かい物事でも({執着心})を抱えたままで、傍の人達を恨んでいたりする場合もあります。

  とにかく、面白い物事は、自分の知っている人が、自分の自宅の傍に{{豪邸}}を立てますと、平静な{{こころ}}を演じていましても、{{こころ}}の底では、現実的には、凄く恨んだり、悔しい思いなどする場合もあります。
それは、現実に、自分のそばで起こった事のある人でないと、理解が出来ないかも知れません。

自分は努力をせず、私は真面目な人間だと自慢している方達が、大変に困ります。
そう、自分が真面目だと思う方達は、他者の出来事には案外と簡単に怒りますし、立腹しますよ。
真面目に真剣に、自分が「「身代わり不可症候群」」の人間かどうか、確認です。

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2012 年 10 月 31 日

  最後の「「四苦」」になりますが、「「死」」ですよ。
どんなに、当方が、「「身代わり」」、「「身代わり」」だと叫んでも、此の世に生きている人間に向かって、({身代わり})などと叫んでも、現実に、その事を体で悟るのは、難しいでしょう。
目前で死んでゆく人達、或いは、目前で({瀕死})の状況にある方々に、そのような人と「「身代わり」」になってなどと言えば、こんな場合の身代わりは、間違っているでしょう。

  それにしても、その人の「「身代わり」」ですか、自分の{{こころ}}で相手の状況になって考えてみるのが大事ですよね。
今から、死んで行く人に対して、その方の気持ちになってみてあげる事なのです。
目前の方々が死ぬる場合には、その方の({気持ち})ですよ、寂しいとか、悲しいとか、辛いとか、自分の人生が消えて行くとか、諸々の気持ちを理解してあげる事ですよ。
そのことで、自分も、({安堵感})を感じるでしょう。

  自分を中心的に考えると、自分の周りに({何事})が起こっても、何も感じませんよ。
自分の周囲に何時も、自分の({眼差し})が届いているのが、大事ですよ・・・・。
悩む人達は、殆どの場合で、いや、全ての場合で、自己中心的な状況になっていますから、他人の事柄などは、考えません。
それ故に、他人が見えないのですから、「「身代わり」」、などは、見えませんから、「「身代わり不可症候群」」などの、言葉も簡単には、届かないのは言うまでもありません。

  ここで、この欄では、「「死」」についてですから、人間は、自分の「「死」」を考えたくないのが普通でしょう。
自分の「「死」」にも、他人の「「死」」にも、({眼差し})を向けたく有りません。
何度も、繰り返しますが、100人のうち100人が、「身代わり」」できないものは、そんな場合では「「身代わり」」になって下さい、などとは言えません。
{{ケースバイケース}}ですからね。

  でも、現実にどのような場合であっても、真に相手と({体})を入れ替えるのは、真実には有りません、イメ―ジだけでもとお願いしても、難しいですよ。
死んでいく相手の{{こころ}}や相手の({立場})、相手の置かれた{{状況}}を、自分と置き換えてみる事なのです。
そうする事で、自分が悩んでいた{{惨め}}な自分、({愚か})な自分、{{か細い}}自分に気づいて、驚くと共に、自分の考え方の(「間違い」)に気づくでしょう。

  自分の({間違い})、自分の({誤り})、自分の{{愚かさ}}、自分の({小さいこころ})に気づく事、また、自分の({持ってもいない優越感})、自分の{{強いエゴイストのこころ}}、自分の{{強すぎたナルシストのこころ}}などに、気づけば、逆に、{{こころ}}の丈夫な人間になれますが、必ずや、自分の(「過去」)を見つめる事です。

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2012 年 10 月 30 日

  次に、お話するのは「「病」」ですね。
「「病」」については、普通の場合では、自分が({病気})になってから、疼痛とか、不治の病などとなってしまうと、特別にですが、癌性病変や特殊な不治の病になった時には、誰もが悩む筈ですよ。
私の人生では、こんな({予定}は入っていなかったなどと、苦しみますよ。

  簡単に治る病気もあるし、治るのには数か月間もかかる病気もあります。
そして、最後には、必ずや、訪れて来る辛い病気、疼痛や各種の苦しみを伴う病気にもなって来ます。
人間の一生が、自分には見えている積りですが、現実に、その状況がやって来ますと、人間個人は、自分の事となると、大変に悩むものですよ。
日頃からでも、己の人生については、理解している積りの人達が、現実に、自分の死を認めて下さいと伝えますと、あまり({自分の死})については、考えたくありませんと言います。

  今は、生老病死の話から、「「身代わり不可症候群」」の話をしていますが、誰も人間は、このような({悩み})を背負っていますし、そんな悩みを背負っている方達の({悩み})や({苦しみ})を抱えている人の({身代わり})ですよね。
そんな人達の{{身代わり}}ができると、悩まない人間になれますと、皆さんに伝えているのです。
ですが、悲しい事に、人間は({自己中心的})で、エゴイストやナルシストの方々が多いので、なかなかと、相手の人間の({身がわり})になれません。

  特別に「「死」」については、全く、相手の方と自分を入れ替えましょう、とは言えません。
この事は当然でしょう。
「「病」」が、直接に、自分の「「死」」につながる場合もありますが、多くの場合で、即座に簡単に、自分の「「死」」とつながる場合は少ないでしょう。
診療していましても、何時も目前に居る病気の人が死亡する訳でもありませんしね。
だから、「「病」」については、その方の気持ちになって、自分が万一でも、このような「「病」」などで、あるとすれば、どう感じるのだろうか、など、いとも真剣に自分を考えるのです。

  人間世界で、不安障害&神経症、うつ病、登校拒否、暴力、非行、シンナ―中毒、その他の薬中毒、事件、犯罪、などなど、全ての物事や状況は、人間個人の{{こころ}}の歪さから起こりますが、こんな{{こころ}}の歪さも、その人の生い立ちの中で育まれた{{こころ}}に原点があります。

そうであるからには、現在の自分の{{こころ}}を反転するには、己の生い立ちの育つ過程の中で、どのくらいに、自分勝手に生きて来たのか、或いは、自分の親に対して、母親、父親、兄弟姉妹についても、自分の{{こころ}}が如何なる動きをしていたかを点検しましょう。

 「「身代わり不可症候群」」を、理解すれば、人生は気楽です。

<<身代わり不可症候群>>身代わり不可症候群(追12)

2012 年 10 月 27 日

  次は、「「老」」ですよね。
若年者の場合では、意外と、「「老」」にきづかないでしょうがね。
私は、まだ、若い、若い、などと思っています。
人間は、此の世に生きていますと、意外と、年齢を忘れて生きています。

  まだまだ、若いと思いながらで、何時の間にか、年老いてしまいます。
そう、あまり若い人達では、「「老」」については、考える場合が少ないでしょうけれどね。
それでも、少しの({きっかけ})で、もう一度でも、若くなりたいなどと、思ってみます。
時には、40歳くらいで、「「認知症」」にもなったりします。
傍で生きていた方達は、きっと、年老いて行くには、辛い感じがするでしょう。

  現実に、若い人たちは、考えないでしょうが、年老いた方々の周囲で生活をしている方々は、ふと気づくと、真剣に考えて悩む場合もあるでしょう。
人間世界で生きるには、何も悩まないで生きるのが最良ですよね。
集団やグル―プの中で、楽しく喜んで生きるのが最良ですよ。
若い間は、当方の言葉に、何も特別に感じないことがあるでしょうが、現実に高齢者となりますと、意味の無い言葉のように感じるでしょうが、現実に高齢者となりますと、己が知らない間に、ふと、心の葛藤になるものです。

  人間は、自分の年齢が若くても、必ずや、自分の傍にいる方々の年齢は、誰もが若い訳でもありません。
そうであるからには、自分の周囲の方達の{{こころ}}を理解できる人になるために、沢山の人間の({思い})や({苦しみ})や{{こころ}}を知って欲しいものです。
現実に、人間の年齢が若い間は、高齢者の({悩み})や({苦しみ})などを理解してあげて下さいと、お願いする方が無理でしょうからね。
そうだと、若年者に向かって、全ての人間の({悲しみ})や({苦しみ})などを理解して下さいと、お願いする方が無理でしょう。

  でも、可能であれば、物事を理解するには、人間は{{からだ}}で理解する事、{{あたま}}で理解できるよりも、全身全霊で「「物事」」を悟る事なのです。
{{からだ}}で、物事は悟る事です、唯、唯、頭で理解するだけでは、人間は説明を一度聞くだけでも、簡単に分かりはします。
ですが、説明だけで理解する事は、人間は、簡単に忘れてしまいます。簡単に忘れる事は、あまり意味が無いのです。
そう、自分の体&身には付いていないのです。

  物事を理解する事は、体で理解する事、即ち、({悟る})ことなのです。
若いのに、「「老」」を悟るには、本当に難しいでしょう。
でも、最初に、自分が悩まない事、その上で、周囲の人達の悩みを理解してあげて、周囲の悩む人達の{{こころ}}をなおしてあげる事が重要ですよね。
「身代わり不可症候群」」の意味を理解して下さいませ。