時代の流れは何と早いものでしょう。
20世紀末に近づいて、PC、インターネットなどがあっと言う間に世界に広がりました。
若き人から、老いに至る人達までが、PCを操作する時代となりました。
PCを扱えない人達は、何と時代遅れなのかと言う感じさえある昨今です。
断言している訳ではありません。
時代の流れの{早さ}を言っているだけです。
人間の生きている居場所、世界中の全ての地域で、宗教なるものが存在していた様です。
迷える人達を治療するために、お祈りや、“民の行方”の平安を祈るために・・・。
民の社会には必ず儀式や儀礼、そして宗教などがあった様です。
地球上の世界では、発展した先進国にもそうでない途上国にも、必ず宗教が存在している様です。
どんなに科学や技術が進歩しても、宗教は存在し継続されて行く様です。
宗教とは、集団、儀式&儀礼、宗教書、配偶者、宗祖などが必要なのであろう。
例外は多々あるが、宗教とは、人が生まれて死ぬまで、寄り添って生きて消えて行くものであろう。
{依存}だとよく言われている。
だが、宗教に信心のある人達は、自分の信じる宗教を{依存対象}などとは全く考えてはいないであろう。
宗教に信心の無い人達が、勝手に{依存対称}だと決め付けているのでもあろう。
人間が生まれて来て、自分の一生を生きる上で、宗教を信じる人達もいれば、信じないで終末を迎えて死んで行く人達もいる。
また、人生の途中から、親の宗教を脱出して別の宗教へと入信して行く人達もいる。
信心があってもなくても、人は“自分の人生が幸せだ”と感じれば、それだけで良いのかも知れない。
本人個人が“幸せだ”と言えば、それだけで周囲の他人が<とやかく言う>必要は無いであろう。
しかし、当人が幸せだと言っても、周囲には他人や家族も住んでいる筈である。
人間個人、人は誰しも独りでは人生を生きる事はできない。
一般の心理療法では、宗教を非難する事は無いだろうと当方では考えているが、当然の事でもあろう。
心理療法では、人の信じている宗教を非難してはならない。
どんな良いと言われる心理療法でも、宗教を非難する立場には無い筈である。
如何なる心理療法も、洗脳とは関係が無いと考えている。
あくまで、個人が悩みから脱却できるように援護するだけである。