思春期時代について、少し触れてみます。
二人の青年が居て、美しい女性が一人だけ周囲に居たとします。
他の、女性は誰が見ても普通の女性に見えるし、可笑しい顔や姿でもないのですが、一見、誰が見ても傍に可愛い美しい綺麗な女性が居れば、男性の心は綺麗な女性の方に心が傾くものでしょう。
自分も好きだし、自分の友達も彼女が好きだと言う場合も有ります。
二人が競って、彼女を好きだと言っても、自分の友人を彼女が好きで、自分を彼女が嫌いだと言って、友人とデイトなどを重ねると悔しいものでしょう。
自分にとって、そんな友人と彼女について、自分の心は穏やかにはなりません。
「やきもち」・「嫉妬」・「妬み」にも、なっていきます。
友人が彼女を好きだと言い、その友人に快く譲ってあげて下さいと、言われても、そんなに簡単に、自分の心は穏やかにならないでしょう。
友人と自分とが身代わりの状態を考えて、喜んで、友人に譲ってあげる程の{{度量}}は持てません。
若い時代には、誰にでも似たような体験が有るかも知れません。
でも、「身代わり」に素直になってあげるのは大変でしょうし・・、
誰も友人の気持ちになって傍から応援してあげましょうなんて、言えないですよ。
また、人間も大人になって、知らない人が自分の家の傍に大きな家を建てても、腹立つような事は少なくないでしょう。
案外と、この事については、諦めがつくのですよ。
しかし、自分の既知の人が自分の家の傍に大きな立派な家を建てると、悔しい悲しい気持ちがするものです。
大きな家を建てた人の気持ちになって、理解してあげて下さいよ、心より喜んで納得してあげて下さいと、言っても、しかし、現実は辛く感じます。
それでも、納得してあげるには「身代わり」になれるかどうかですね。
上記の出来事などは、「身代わり不可症候群」と同じで、なかなかと自分の心を大らかに賛成して喜んであげる事は凡人には、難しいかも知れません。
相手の立場に立って自分を見つめると、自分が「愚かな人」、「駄目人間」に見える場合が沢山とあります。
それでも、身代わり出来る{人}になれることが大事です。
これは、俗世間を生きていると、幾らでも有る事柄です。
どんな時にも、他者の眼差しから見れば、自分が{愚かな人}に見える場合は、沢山と有るでしょう。
自分の実力、切磋琢磨の足りなさを認めて納得しましょう。
自分の{生い立ち~現在までの生き様}を、眺めましょう。