<<身代わり不可症候群>>身代わり不可症候群10・・・悩まないために

 人間が悩む場合には、悩む対象が有るものです。

悩む対象が一つの場合と、悩む対象が複数の場合もあります。

悩む対象が物事の場合もあるし、悩む対象が人間の場合もあるのです。

大変に面白いのは、悩みの対象が、自分の{{こころ}}の「「器」」の問題でもあります。

どんなに、人間の{{こころ}}の「「器」」が大きい人でも、頭は一つですから、その自分の持っている頭を如何に使うのかが、悩むか悩まないかの、分岐点になるものです。

 

 悩む対象が、物の場合では、{{欲しい物が自分の手に入らない}}ことや、{{自分の大事にしていた物を失った}}時や、大切な物を落として失った時と盗まれる場合もあるでしょう。

物を盗まれて失った場合では、盗んだ人が判明しているかどうかも、問題になるでしょう。

多くの場合で、相手が不明確ですよね。

仮に、推定ができたにしても明確に{{この人が盗んだ}}などとは難しいものです。

物に対しても、どれだけ沢山と、自分が拘っているのか、拘っていないのかを明確に確認してみるのが、凄く大事です。

 

 物にも拘る事を、適当な折にでも、中止する力量が重要です。

物や物事に対しての{{こだわり}}は、自分の「「無意識」」や「「潜在意識」」や「「顕在意識」」の{{こころ}}のカラクリを、どのくらい知っているかが、大きな分岐点となります。

さて、自分の悩む対象が人間の場合です、ね。

相手の人間の気持ちを、どれ程に理解できるかどうかでしょう。

矢張り、何度も繰り返して記載しますが、悩みや苦しみの原点は、自分を此の世に誕生させた母親と父親との{{こころ}}の絡まりが原点になっています。

 

 皆さん方は、よく言いますよ、・・私は、親孝行して育ったとか、親に対しては「「感謝」」も「「恩」」もしていますなどと、自己主張されます。

でも、現実に、自分の過去を明確に振り返りながら、自分の「「会話」」・「「行動」」・「「こころ」」を点検しますと、自分の親に対して「「感謝」」と「「恩」」を持っている人達は居ない筈です。

私は、絶対に、親へは「「感謝」」と「「恩」」を持っているなんて自己主張しても、自分の過去の{{誕生から~~現在までの過去の生い立ち}}を調べると、間違っている事が理解できるでしょう。

 

 自分の{{考え方}}の間違いに気づく事、これが、最高に大事です。

「「身代わり不可症候群」」とは、相手の気持ちを考えるのが無理な場合、相手の立場に立てない人達の事を言いますが、このような人達は拘りや悩みの{{こころ}}から開放されませんと、皆様方へ伝えているものです。

どうぞ、皆様方が「「身代わり不可症候群」」の人間から、{{身代わり可能}}な人間になって下さいますように、当方は希望しております。

「「身代わり不可症候群」」、どうぞ念頭に入れておいて下さい。 

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