<<心の世界>>「無情観」、「無常観」って・・・

 「「無情感」」・「「無情観」」って、「「無常観」」って・・・・???

 

 むじょうかんと言えば、一般庶民は「無情感」・「無情観」と言われますし、「無情観」と書かれる人達が多いです。

でも、仕方がありませんね。

普通の人達は、そこまで<心の世界の紐を解く>必要も無いのかも知れませんから・・。

ここまで体得するには、相当に<人生とは何か???>を考え込まないと、体得出来ませんから・・・人生の独特な修行も必要です。

 

 ところで、普通、悩み苦しむ場合では、自分の事を中心に考え込んでしまいます。

だから、余計に苦しみます。

人生を生きるのに、悩んで生きているのは、自分だけじゃあないんだ、他の人達も沢山の人が悩みながら生きているのだと、気づけば気持ちも幾分かは<楽>になるものですが、それでも、辛いものです。

やはり、金輪際、自分以外の他者に対して、不満や不平や恨みや怨念や呪いなどの感情の一欠けらも持たない方が、遥かに人生を生きて生き易いですね。

 

 沢山の人達に、出会います、私は{何も悩みは、持っていない}と自己主張されます。

だが、人間の心って、そんなに簡単ではありませんね。

とりあえず、現在の今、私は幸せだと感じていても、自分の過去には、必ずや、誰しも、心の満たされなかった{過去の心の積み残し}を積み重ねながら日常生活をしています。

無意識的に、「積み残された過去の心」が、「現在の自分の心を圧迫して」いますので、勿論、殆どの人達は気づきません。

 

 「積み残した過去の心」を、しっかりと掘り起こす、自分の過去を回想してみないと、理解できません。

何故、人は、自分の過去を回想するのか、それは、本当の自分の考え方を知るためですね。

私は、私の心を全部が理解できていると、自己主張される人が沢山と居られます。

しかし、自分の生い立ちの心を、自分の過去の暗闇に葬ったままでは、真実なる自分を生きるのは、困難です。

 

 人は、「会話」と「行動」、それを操る「心」があります。

どんなに考えても、この「3つ」しかありません。

自分の「会話」と「行動」を操る自分の「心」を知る事、格別に今の「心」は過去の心に裏打ちされていますので、自分の「過去の心」を知る事ですね。

自分の過去の心を知ると言っても、自分流の自己分析による<自分を知った>では駄目ですね。

客観的な自己分析による<自分の過去を知った>でないと、あまり有意義ではないですね。

 

 悩まないと言う事では、「「無常観」」が最高でしょうが、ここまでは、普通は無理でしょう。

 本当の<過去の自己を知る>で、良い筈です。

 

 自分の過去を充分に客観的に知るだけでも、今の自分の人生をより良く悩まずに生きられる筈です。

コメントは受け付けていません。