人の存在は、時間を縦軸に、空間を横軸にとり、その交わった一点が<人の存在>でしょうね。
ここは、少しながら、哲学的思考になりますが、これが事実です。
人間世界に誕生した以上は、必ずや、「死」が待っています。
人は、その人が何歳で「死」を迎えるかは、全く確定できませんし、
予想は不可能です。
その人が、何歳で、どんな病気になるかは、不確定で不透明です。
何歳で、どんな人に出会うかも、不確定で不透明ですね。
その人が、何時、此の世に誕生するのか、誕生しないのかも、全く
不確実で不透明です。
その人が、老いるまで生きているかも、不確定です。
どんな人達、どんな出来事、どんな事柄に出会うのでしょう。
全てが、不確実、不確定、不透明なのです。
貧困の社会で生きるのか、豊潤の社会で生きるのか、また、それが、その人にとって{{幸せか??どうか??}}も、不確実で不透明です。
人間個人に、どんな災難、人災、天変地異などの災難が降りかかって来るかも、ぜんぜんと分からないのです。
説明すれば、それは、そうだと、皆が納得します。
ですが、体では理解できていません。
仕方がないですが、これが、人間の理解力の<限界>でしょう。
人が此の世に誕生してから、どんな死に方で死んでゆくのか、死ぬる時に、どんな苦痛を味わうのかも知れません。
突然死するのか、病院などで治療を受けながらも苦痛を味わいながらも、一生懸命に生きようと考えながらも、<死の道>へ入ってゆくのかも知れません。
予定に入れていなかった道、人生にて沢山の苦しみや悲しみを抱え込むと、自殺もします。
「自殺」なんて、普通の生活状況の時は、絶対に予定に入れていないでしょう。
また、人間って、本質的には<自殺をして>喜んでいる人は居ません。
此の世を、何とかして生きたいと考えながら、予定と違った苦しい心の荷物を抱え込んで、生きていたい、生きていたい、死にたくない、死にたくない、そんな内なる心が喘ぎながら頭の中で、心が交錯してしまいます。
「死神が 我が傍らに 立たずみて 事あるごとに 死ねと袖引く」なんて、「歌」があります。
自分の本当の気持ちは、人生を生きる事を希望しているのですが、自分の頭が混乱して思考力を失い、<死の世界に引き込まれて>いきます。
自分の心とは、自分の意志とは、反しているのですが、意識変性を起こして自分の気持ちとは、反対の方向に引き込まれます。
「己の心」、「己の存在」を知るには「・・心理療法」で大丈夫です。