<<当方の論文>>「「論文」」&「「論考」」2

 「「顕在意識」」の方が遥かに大きくて、大量の「「意識」」を抱え込んでおります。

唯、人間の歪な{{こころ}}さえ、或いは、歪な「「会話」」や「「行動」」さえ、全ての問題は「「潜在意識」」や「「無意識」」から、強迫されていますので、「「現在意識」」&「「顕在意識」」」は、大量の{{こころ}}を抱えています。

 そんなに小さな氷山の「「一角」」でもないし、絶海孤島の「「離れ小島」」もありません。

そんな考えは、当方は理解できますが、学問的になりますと、「「顕在意識」」は絶対に大変に大きな{{こころ}}の塊と考えても間違いありません。

 

 当方が気づいた事柄は、「「無意識」」と「「潜在意識」」」と「「顕在意識」」の成り立ちは、或いは、表現は、「「無意識」」は小さくて(小さいと言っても、巨大なものでしょうが・・・)、「「潜在意識」」もまた、そのように「「顕在意識=現在意識」」」に比較すると、まだまだ、小さいものになるでしょう。

 ピラミッドや富士山の頂上を「「顕在意識」」で表現するのは、少しながら考え方が違っているのではないか、どうしても、フロイドやユングのような考え方に納得できない状況で有ります。

彼等の理論は、理解できますけれどね。

 

 当方が、感じるのは、氷山の海面に浮かぶ「「一角」」や、絶海孤島の「「離れ小島」」などの、そんな小さな塊が、「「顕在意識」」ではないと、伝えているものです。

「「顕在意識」」は、遥かに巨大で大きな{{こころ}}の塊であるでしょう。

しかも、「「無意識」」や「「潜在意識」」から裏打ちされて動いているのが、「「顕在意識」」ですからね。

 当方が、表現するのは、人間が雨振りに使用している「「雨傘」」か「「コウモリ傘」」のようなものです。

また、陽照りの中の「「日傘」」みたいなもので、「「傘」」が「「顕在意識」」だと言っても良いでしょう。

 

 そう、「「顕在意識」」の方が、遥かに、大きいですからね。

その下に存在している、「「潜在意識」」、更に、下層にある「「無意識」」の世界を背負っているのが、「「顕在意識」」=いまの現在の{{こころ}}ですからね。

「「日傘」」や「「雨傘」」の表現が、どうかと問われれば、松茸(マツタケ)や椎茸(シイタケ)でも良いでしょう。

茎が少し大きくても構いませんね。

 でも、当方は、根っ子は、或いは、三角形にしても、下層は現在の{{こころ}}=「「顕在意識」」に比較すると、小さいものと熟慮した上で結論を出しています。

どんなに考えても、現在の「「意識」」は小さいものと、彼等は言っていますが、どんなにいびつな{{こころ}}を持った人達、ニ―ト、フリーター、不安障害、うつ病、非行、暴力、犯罪にしても、「「顕在意識」は大変に巨大なものです。

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