<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(5)

 とにかく、人間が誕生する前から、胎内においても、大脳が形成されていく段階で((何らかの記憶))が、蓄積されるとも思われますが??? 如何でしょうか・・。

勿論、何らかの記憶が蓄積されても消えていくのでしょう。

「「海馬」」も「「側頭葉」」も、また、「「前頭葉」」でさえ、十分に成長していないから、人間が幼児から大人になっても{{記憶}}の無いその事は、無理ではない話でもありましょう。

時折に、自分の「「「前世」」」が分かるなんて言う人もいますが、御自分の思い込みや、自分以外の他者への<<洗脳>>とか、相手の前で<<面白くさせる>>とか、色々な場合があるでしょう。

 

 勿論、当方は、「「自分の前世が分かる」」と自己主張する人達には、そうですかと{{その話}}を聞き入れておくだけです。

いずれにしても、今回、当方が話をしたかったのは、人間の「「記憶」」にも様々な種類の「「記憶」」がありますが、大脳の「「海馬」」から「「側頭葉」」とかの話もありますが、まだまだ、今後の研究にて人間の{{記憶}}が大脳のどの部分に明確に記憶されていくかは、変化していくでしょう。

「「海馬」では、古い{{記憶}}は残らないとも言われます。

「「側頭葉」」に、古い記憶が残されるとも、言います。

 

 それほどに、人間の「「記憶」」が大脳のどの部位に蓄積されるかは、研究をしても大変に難しい分野のようです。

 もっとも、難しいものです。

人間の大脳を簡単に切除、切ったり縫ったりするものではありませんからね。

人間の癲癇の手術での医師の体験から、少しの事実が記載されてはいますが、詳細な研究にはならないでしょう。

今後の医療や心理学の世界で「「記憶」」については、解剖学的には如何なる結論がなされていくのか、大変に困難でありましょう。

{{こころ}}の世界、格別に「「心理療法」」の世界では、「「記憶」」の場所が何処であろうと、あまり関係ないのかも知れません。

 

 自分の{こころ}}を解きほぐすために、唯、自分の通り過ぎた<<生い立ち>>の過去の足跡を素直に歩いてみる事しか有りませんね。

素直に「「懺悔」」なんて言っても、普通の方達は案外と自分の過去の心を点検しないし、点検する度胸を持ち合わせていません。

そこで、当方が、考え出したのは、「「こころ洞察法」」=「「マインドサ―チセラピィ―」」と言って、あまり無理をしない状況から少しずつ自分の{こころ}の世界に入っていく方法なのです。

いきなり、「「内観」」と言っても、直ぐに、「「懺悔」」を正直に人間は行なわないところが、悲しい「性」であり「業」でしょう。 

コメントは受け付けていません。