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2012 年 6 月 のアーカイブ

<<人間>>**人間**(2)

2012 年 6 月 18 日 月曜日

  幼い子供達、いや、乳児や新生児の方達でさえ、生まれつきに{{病気}}を抱えて誕生して来る方達も居られます。
そのような、先天性の{{病気}}を抱えていても、一方では、特殊な能力を抱えている素晴らしい方達も、時折にですが、見受けられます。
そうですね、ピアノとか、音楽関係、そして、絵画とか、その他に、芸術において、才能を持っている人達も、現実に見られます。

  そう、大人になってからでも、大変に「「地位」」も「「名誉」」も「「金銭」」も入る人達も、時折にですが、見受けられます。
でも、ここでは、例外の人達を外しておいて、述べていきましょう。
そう、何ども同じ言葉を繰り返すかも知れませんが、恐縮です。
人間社会では、沢山の人達との{{出会い}}がありまして、{{こころ}}と{{会話}}と{{からだ}の接触があります。
{{こころ}}の接触が良好に出来ないと、そう、一般的には、{{会話}}と{{からだ}}の接触もできないでしょう。

  そこで、人間に一番に大事なものは、{{会話}}と{からだ}}の接触ができること、
でしょう。
先ずは、幼い頃から、親に育てられるか、親でない人間に育てられるかでしょう。
大変に難しいのは、子供側から見て、親であれば、親が自分に「「何」」をしても良いかと問われると、親からの上手な「「子育て」」が重要です。
人間が、乳児や幼児を育てる場合には、上手な{{会話}}とか上手な{{触れ合い=からだ}}の接触が大事です。
勿論、こんな上手な行いが出来るには、大人の大事な{{こころ}}が有ってから、初めて成立するものです。

  だから、子供を育てる大人、或いは、{{親のこころ}}次第で、子供達は人間世界を上手く生きる事ができるか、どうかが決まってきます。
親とか、親以外の人達が、自分の「「価値観」」でもって育てるのではありません。
そんな{{育て方}}をすると、上手く育ちませんので、大きな注意が必要です。
子供の「「心理」」を少しながらでも、勉強しておかないと、どんなに「「偉く」」なっても「「有名」」になっても[[金銭]]を溜め込んでも、そのうちに{{こころ=人格}}が壊れて駄目人間になってしまいます。

  本当に、人間って、何だろうと、明確に勉強をしておくのが大事ですよ。
人間が、多くの場合で、自分の{{こころ}}は正しい、間違いのない立派な人間だと思っているのが、最大に怖いですね。
必ず、子育ての段階で、子供の立場になって育てるべきですが、これは、本当に難しいでしょう。
だからこそ、少しでも、子育ての勉強をしておいて下さいませ。

<<人間>>**人間**(1)

2012 年 6 月 14 日 木曜日

  人間って、何だろう・・・。
「「人間」」って、{{こころ}}と{{からだ}}から、成り立っています。
勿論、赤ちゃんや幼い乳児などでは、{{こころ}があっても、自分の{{こころ}}を相手の方達と「「交流」」して生きるのは、不可能です。
そう、この{{閲覧文}}を見ている方々も、或いは、見ていない方々ですよね、新生児、乳児、小児、学童、生徒、学生、大学生、いや、就職で就労している方々、青年も、成年、高齢者の方々も、或いは、寝たきりの{{鼻管栄養}}や{{胃婁}}の方々、あるいは、{{酸素吸入}}の方々も、立派な人間ですよ。

  困難なのは、人間の成長ですよね、精子と卵子の結合した、何処の段階で「「人間」」だと呼べるかどうかでしょうね。
例えば、胎児として、母親???の胎内に居る、何処の状態、何ヶ月とか、色々と生物学者や宗教学者や産婦人科医や倫理学者や、多方面でのルールみたいなものまで有るでしょうね。
少し、難しい「「話題」」にもなりました。
恐縮です。

  今から、人間について「「話」」を進めていきますが、どうしても、人間である以上は、親が居るのです。
親が居ないで、此の世に出て来る人は、誰も居ません。
また、此の世に出て来たばかりでは、人間は、傍からの手助けを得ながら育ちます。
人間が此の世を生きるにあたり、前述しましたが、幼い頃は、親か、或いは、親以外の方でも良いから、必ず、何らかの手助けが必要です。
そう、「「衣」」・「「食」」・「「住」」ですよね。

  親以外からで、育てられる場合では、随分と、人間の{{こころ}}が歪になってしまう場合もあります。
そう、成長してからでも、人間の{{こころ}}が歪になって、人生を生きるのに苦労する場合があります。
何故かって、世の中で生きるには、誰かと一緒になって生きる事になるのです。
人間世界を生きるのに、一人では生きる事ができません。
学校でも、必ずや、他の生徒とか、先生とか、自分の初めての{{出会い}}の人が居るものです。

  最近は、随分とニ-トとかフリ-タ-とかの人達も増えて、大変です。
彼らは、自分以外の人間を信用できないし、友達にもなれません。
「「孤独」」や「「不安」」や「「不満」」や「「怒り」」など、持って生きています。
だから、集団の中で、或いは、自分の傍で他者が居る事に、疲れてしまいます。
少しずつですが、人間について、説明をしてみます。

<<人間>>**人間**(序)

2012 年 6 月 13 日 水曜日

  一応、人間とは、先祖があり、祖父母あり、両親がいます。
そうですね、先祖から、遺伝子を受け継ぎながらで、両親の交わりによって「「此の世」」に生まれて来ます。
いや、生まれてくるのですが、父親の[{種}]の数は何億と有るものです。
母親の卵子が一つです。
そんな、{{生}}を受けついだ二つの物が合体してから、人間となって此の世に誕生してきます・・・。

  これは、少しながら言葉を使いますが、「「因縁」」と言いますね。
そう、「「因縁」」の言葉を使いましたが、不思議な男性と不思議な女性の合体ですから、不思議な「「生命体」」が新たに、出来上がるものです。
不思議な「「因縁」」ありて、不思議な「「宿命」」を受け継ぐものです。
此の世に誕生する人間について、好きで好んで喜んで楽しく{{此の世}]に生まれたのではありません。
人間って、生命体ですし、私と言う人間は、決して、好きで好んで自分の希望で「「此の世」」に現れたのではありせんね。

  この事については、どんなに真剣に考えても、どうにもなりません。
私が、喜んで、自分の意志で誕生したのではありませんから、少しくらいの({言い分})は有っても良いのでありませんか。
「「因縁」」も、たまたま、「「宿命」」も、たまたま、でしょう。
まして、「「運命」」も、たまたまと、好きでも嫌いでも、自分の、私の「「運命」」を担いで生きる事になります。
何で、私を「「此の世」」に産み落としたのか、どんなに考えても、納得がいきません。

  私は、今の親が嫌いなのです。
もっと、優しい美しい母親が、私は欲しかったのです。
何で、今のような母親と父親だったのか、私の{{言い分}}だってありますからね。
とにかく、人間として、「「此の世」」に産み落とされたら、仕方がありませんし、私の「「生命」」をキープするか、しないかだけですね。
「「人間」」について、記載するのは大変ですけれど、そうですね、あまりにも、簡単すぎでもあります。
だが、あまりに、簡単に記載しても、面白くもないし、読む人のためにならないでしょう。

  人間とは、地球上の[{生き物}]ですし、そう、自分が、私は、生きています。
それゆえに、色々様々な表現ができますし、地球上には、沢山の生き物がいます。
小さい生物から、そう、人間の目玉には全く見えない[{微生物}]なども生きています。
人間の眼には見えない[{生き物}]から~~~[{大きな生き物}]まで、色々と生き物が居ます。
悲しくても、嬉しくても、簡単に、自分の「「生命」」を抹殺するのは、大変です。

<<劣等感>>「「劣等感」」続編21

2012 年 6 月 9 日 土曜日

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・

 この言葉を使って、説明しましたが、人間の「「欲望」」が満たせない場合では、「「劣等感」」にもつながってきます。
「「劣等感」」なんて、どんなに、「「金銭」」・「「名誉」」・「「地位」」なども、或いは、「「好きで愛する異性」」を得ても、「「驕り」」にもなりますし、「「驕り」」には、「「劣等感」」が関連している場合が、大変に多いです。

 「「劣等感」」を、持っている方が良いのでは、などと言う方達が時折に見られますが、絶対に、それは、無いでしょう。
「「劣等感」」を持った人が、「「劣等感」」から、解放された人でないと、理解できないかも知れません。
「「劣等感」」から開放された方々は、絶対「「劣等感」」は無い方が良いと言うでしょう。
全く悩んだ体験が、無いと言う方々は、案外と自慢をするでしょうが、その方々には他者の悩みを理解してあげる事は不可能でしょう。

 当方は、多いに悩んで欲しいし、そこから這い上がった人達には、上手に悩める方々を支援する力量を持っている可能性もあります。
あまりにも、己に「「満足」」と「「地位」」や「「名誉」」や「「金銭」」を抱えている方々には、悩める人達の{{こころ}}を理解しないので、その人達の傍で生活している方々は、大変に苦労するのかも知れません。
どうぞ、人間世界で生きる間は、「「劣等感」」を持たずに、或いは、「「劣等感」」について理解力のある人間になっておいて欲しいです。

 人間世界では、自分が一人で生きる事なんて出来ませんので、人間存在の学習もしておいて欲しいです。
此の世を生きている方達で、「「私には悩み」」なんかは全く無いと言う人が居れば、その方の方が少し変わった人間でしょう。
どうぞ、皆様方には、人生を生きるのに気楽に人間同士で仲良く生きて行ける事を希望しています。

 「「四苦八苦」」から、随分と「「話」」をしてきました。
この「「話」」は、本当に凄く大事だと考えています。
皆さんも、少しでも良いですので、学習をしてみて下さいませ。
誰もが、良い人生を暮らせますように、記載してみました。
随分と、「「劣等感」」については説明もしましたので、この「「劣等感」」については、この辺で,この項を終わりたいと思います。

 皆様方の「「幸せ」」を、祈っております。

<<劣等感>>「「劣等感」」続編20

2012 年 6 月 5 日 火曜日

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・。

 そうですね、「「受」」ですか、人間の「「五感」」や「「六感」」が捨てられない場合では、「「色」」を捨てる事なのです。
「「色」」を捨てる事は、此の世に存在する物、{{生あるもの}}も{{生の無いもの}}も含めて、全部を捨てて下さいと言う意味ですよ。
でも、そんな事柄を言っても、絶対に捨てられないと言うのであれば、最初から、「「色」」は無いと考えて下さいと言うのです。

 簡単に「「色」」は無いと考えて下さいと言っても、難しいですよ。
そこで、「「色」」は無いと、人間の見ているもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、肌で感じるもの、全てのものは「時間と共に消えて無くなって行く」ではないかと、言っているのです。
確かに、此の世に存在する全ての物は、消滅してしまうのです。
一部の考え方ですが、此の世には「「真実に存在するもの」」が何も無いと言うのです。
「「真実に存在するものは、絶対に消えて滅する事は無い」」と言う考え方があるようです。

 そこで、人間が{{こころ}}を奪われている物事は、「「無い物事」」に{{こころ}}を奪われているのです。
どうして、そんなに消えて行く物事に、人間は拘るのかと教えているのです。
どうして、人間は「「拘り」」の{{こころ}}を持つのか、もう少し真実を熟慮して下さいと言っているのです。

 人間が「「拘る」」物事について、如何なる考え方を持つかどうかですね。
悩み苦しむ場合では、特別に「「うつ病者」」などで、物事に拘る{{こころ}}から開放されないので、悩み苦しみから逃れられないのだと、言う事もできます。
でも、人間の「「拘り」」は、面白いですよ。
人間って、面白いのですが、「「うつ病」」で死ぬほどに悩んでいても、私には「「悩み」」は無いと答える人達も、時折に、見られます。
そんな人達は、もう少しながら、自分の{{こころ}}に磨きをかけて欲しいものですね。
そのような、物事に拘り始めると、人間の「「欠乏欲」」は限りが無いと言います。

 「「欲望」」が深い人間ほど、{{悩み}}はつきまとうものです。
{{悩み}}から、開放されない限りに、{{こころ}}の病気から開放されないでしょう・・。
「「色即是空」」などと言う言葉は、素晴らしい言葉ですが、人間はなかなかと{{こころ}}について勉強をしません。
でも、少しながら、勉強をして欲しいものです。
「「色即是空」」→「「諸法空想」」と同じ表現でもありますし、「「色即是実」」=「「諸法実相」」とは、全く反対の考えもあります。

そう、楽しい嬉しい場合では、沢山と拘っても良いです。
でも、あまり沢山と拘ると、嬉しい物事でも、{{こころ}}が疲れます。