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2010 年 10 月 のアーカイブ

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉~大脳皮質(8)

2010 年 10 月 26 日 火曜日

 人間の「「記憶」」なんて、当方は、少し簡単に言い過ぎたのかも知れません。

一般的には、人間の「会話」・「行動」・「心」など、喜怒哀楽にしても、「「海馬」」で記憶をするのですが、「「海馬」」での「「記憶」は比較的に早く消えて行くようです。

その後には、「「海馬」」から「側頭葉」」とか「「大脳皮質」」で記憶されると言いますが、明確には<<どんな状況が、どんな位置で、どんな場所で正確>>に記憶されているのかが、まだまだ、大脳生理学の世界にても明瞭になっていないようです。

どんな状態で、人間の色々様々な「「記憶」」が蓄積されるかについては、何度も繰り返して伝えますが、明白ではないですね。

 

 喜・怒・哀・楽などについても、それだけで記憶される場所も違ってくるみたいです。

そこで、人間にとって分からないもの、知る事ができないものは、それはそれで置いておきましょう。

ですが、{{こころ}}・{{性格}}・{{人格}}を変えるためには、大脳での記憶の場所は何処でも良いとしておきましょう。

自分の「「記憶」」を回想して、自分が如何なる人間であったかを{{悟る}}ことですね。

「「無常観」」を悟るのは、普通の方達には大変に難しいものだし、お住職さんでさえも「「無常観」」を悟るのは困難です。

しかしながら、「「懺悔」」ですね、「「懺悔」」だけできれば、人間世界を気楽に楽しく生きるのが可能となるのです。

 

 自分で自分の考え方でもって、人間世界を気楽に喜んで生きるのは難しいです。

殆どの人達が悩みながら、苦しみながら、嘆きながら、自殺したいほど悩んでも、自分で自分の人生を変えたいと考えるので、大変です。

自分の悩みを簡単に自分で変える能力のある人は、あまり悩む事なんかありません。

又、悩みが深くなればなる程に、自分の思いは「執着」と「拘り」だけになって何とも出来ない{{こころ}}になってしまいます。

当方、随分と長い間、「「心理療法」」を行っていますが、本当に大変なのは、生い立ちでの{{習慣}}なのでしょう。

 

 自分の生い立ちの「「過去」」を思い出さない人達にも、しばしばと出会います。

どんなに頑張ってもらっても、自分の過去を思い出さないのです。

やりっぱなしの人生だけであって、「反省」なんか出来ません。

面接を重ねても、何度も何度も面接を重ねても、思い出さないのです。

時には、当人は自分の{{過去}}を偽っている積もりはないのでしょうが、話を聞かされていても、その都度に過去の話の内容が異なって来る場合もあります。

或いは、自分の過去の話が異ならないにしても、全然と過去の記憶が出て来ないのですから、「「反省」」も「「懺悔」」も何も出来ません。

己の「「過去」」の{{こころ}}だけは大事にして下さいませ。

<<投書>>内観便り(2)

2010 年 10 月 25 日 月曜日

  X様より

(その後に届きましたメールを掲載させていただきます。)

 

こんにちは。

 

ご返信頂いて、感謝しております。

今メールを拝見しました。

 

 実は私は、先生のブログ、

携帯電話から毎日楽しみに読んでいるんです。

 

それが日課になっています。

いつもウームと考えさせられることばかりです。

 

あれだけ重度の「さみしがりや」

な私でありましたが、

内観後は不思議と、その気持ちが消えました。

自分でもビックリで、

「オイオイ?ホントにさみしくないの??」

と毎日自問自答しています。

 

あと、友人から電話で、

「なんだか明るくなったんじゃない?」

とも言われ、

とてもびっくりしました。

 

本当に、みんなが内観の経験を

すればいいのになと思います。

 

今まではなんとも思わなかった、

知人の、家族に対する愚痴などを

聞かされると、

その家族みんなに「感謝」の気持ちがないのか、

家族みんなで内観すればいいのに・・・

と思ったりしました。

 

あとは、今まで面倒だと思っていた母からの

たわいのない電話も、

全く嫌な気分にならなくなりました。

それが私の使命というか、

自分の考え方が大きく変わりつつあります。

 

本当に内観体験をしてよかったです。

 

私の文章が、皆さんの参考になるのでしたら

大変光栄に思います。

 

ありがとうございます。

 

 

 X様へ

こんばんは。

ールが届いておりました。 

メールを頂き、文章を掲載させていただきます。

本当に、感謝申し上げます。沢山の皆様方にお役に立てると考えます。

当方も、素晴らしく嬉しく感じています。

また、何かの折には、御遠慮せずにメールなり、お電話なりをお寄せくださいませ。

お待ちしております。

ご返信いただきましたこと、厚く御礼を申し上げて失礼を致します。

                                    所長より    

<<投書>>内観便り(1)

2010 年 10 月 23 日 土曜日

X より、当研修所での内観後のお便りです。

( 皆さまのお役にたてればとのご許可をいただき、掲載させていただきました。)

「「病は気から」」、を今読み終わったところです。
本を買って本当によかったです。
本を読んで、ビビッときてしまって、今急いでメ―ルをしているところです。
家に帰ってから、なぜ、私は「・・・・男性から離れたい、過去の男性のしがらみを全て切りたい」と悩んで悩んで悩みまくって、内観をしようと決意したのか?
過去の記憶で思い出す嫌なことその他、「「つきあったり・・・男性のことばかり」」なのはなぜなのか?
なぜ。最後の絵で、私の結婚後の家族の三人の絵を描いたのか?
ずっと考えていました。
でも、はっきりと答えが出ないまま帰りました。

帰って先生の本を読んで、やっとそのことに答えがでました。

私がビビッと答えがでたきっかけになった文は
・ (p224)人間は、常に過去で満たせなかった心=固着を、今の現在と未来に向かってすることで、自分の過去における積み残しのこころに対して埋め合わせしようとしており、自分の顕在意識と潜在意識と無意識を満足させよとしている。
・ (p227)人間は、自分の過去で満たされなかったことを、今の自分に何かをすることで満たそうとして、常にそのように生きている(すなわち、過去の補いをしようとして生きていると言ってもよい)。
・ ・(p22)今、悩むということは、その悩みは「過去の悩み」と重複しているが、ほとんどの人たちは気づかない。

あ~!!
そうだったのかと思いました。

私にとって、
「自分の過去で満たせなかったこと」
とは
「父親から無償の愛を受けること」
とは
「過去の悩み」
とは
「父親から無償の愛を受けられなかったこと」
ということだったと気づきました。

でも、家族の前で父親がいなくてさみしい」と、
一時的には愛情の欠乏をしのげるけれども、
それは一時的であって、恒久的ではない。

なぜ家族の絵を描いたのか?
たったひとり、生涯愛してくれそうな、
父親のように私を包んでくれそうな存在=結婚相手が欲しいと思ったのだと思います。

ハッとしました。

先生の本を読まなかったら、
きっとこんな気持ちにはなれなかったと
思います。
本当にどうも有り難うございます。

まだまだ未熟ではありますが、
内観を、今後も続けてゆきたいと思っています。

 

所長より

素晴らしい御丁寧な感想文を頂き、本当にありがとうございます。
人間は、誰も皆が、自分から「「外側」」を向いて生きています。
自分の好みを求めて、自分の好みの人間を求めたり、自分の好みの環境を求めて生きているのです。
人間の存在は、外観的であり、「「外観的人間」」と言います。
内側を見つめることのできる少数の人間が、「「人を救う」」との言葉もあります。
随分前の言葉であり、200年以上も前の言葉ですが、現在の皆様方は知っておられません。
人間の{{こころ}}については、意外と昔の人達も詳細について知っているものです。
「「真実のこころ」」とは、「「真実の存在」」とは、などなど考えているものです。
①「「人間に生まれて来たのは、有り難し」」
②「「今、生きているのは、有り難し」」
などの言葉があります。
①. 人間に生まれたのが、{{ありがとう}}、ではありません。
人間に生まれて来たのが、不思議ですね、と言う意味です。
②今、生きているのが、不思議ですね、と言う意味です。

付け足しの話になりましたが・・・、

随分と、{{こころの世界}}については、悟られて来ておられますので、これ以上の言葉は入れないでおきます。

 

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(7)

2010 年 10 月 22 日 金曜日

 人間の「「記憶」」が大脳のどの部分に溜め込んでいかれるのかが、明確には判明していないようであります。

当方は、「「海馬」」だと皆様方へ伝えていたと感じますが、どうも、その後、大脳の「「記憶装置」」が明確な場所だと判明していないですね、全体的には、「「側頭葉」」とか言ったり、「「大脳皮質」」だと言ったり、何だか、バラバラの感じで、記憶する内容の物事によっても違うようですよ、絶対に間違いないですね、・・・・・。

分からない事は、分からない、理解できない事は、理解できない、そのままで仕方が有りません。

それでも、こうすれば、人生を生きるのが気楽で喜んで生活できるのが分かっていれば、そうするのが一番に良いでしょう。

 

 当方には、本当に長期間にわたり、悩める人達が・・・、{うつ病}、{各種神経症}、{各種心身症}、{パニック障害}、{強迫神経症}、{拒食&過食}、{いじめ}、{登校拒否}、{非行}、{ドラッグ中毒}、{事件}、{犯罪}、{人生を幸福に生きる}、{劣等感}など、様々なケ―スで来院しています。

「「心理療法」」でないと、人間の{{こころ}}の性格や人格を変える事はできないのです。

ですが、庶民の皆様方が{{こころ}}について日頃から考えた事が無いので、{{こころ}}の話をしても、全く理解をしてくれないのが現況ですね。

 

 人間って、面白い生き者ですよ。

「会話」と「行動」と、この二つを動かす「こころ」しかありません。

こんなに、明瞭に簡単に説明しても、誰もが了解できません。

人間、自分の眼に見えない対象物に対しては、案外と{{畏敬}}と{{恐怖}}の念を抱えてしまいますし、信じたりもします。

ですが、こと、自分の中身={{こころ}}については、逆に、全く理解しようとしないのですから、恐ろしくもあり悲しくもあります。

自分の体の外側にて、自分の眼に見えない物事には凄く関心を持ちますが、己の中身の内側のものは自分の眼には全く見えないので、説明をしても関心を示さないし、興味さえも持ってくれない場合が意外と多いです。

 

 そんな{{こころ}}でさえも、自分で積極的に関心を持って勉強してくれれば、凄く自分の人生に興味も出てくるし他人の人生にも{{自分のこころ}}が行き届くようになります。

 人間の生い立ちの{{こころ}}や{{ものごと}}が、どんなものであろうと、大脳では違った場所に記憶されているのは間違いないようです。

大脳の何処の場所から、「「記憶」」を引き出しても、その「「記憶」」さえ再解釈できれば良いのですから、本当に人生を楽しく生きる事が可能となるものです。

「「自分の過去を振り返って、反省をしながら、自分の人生を生きる」」事ができれば、最高の人生となるでしょう。   

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(6)

2010 年 10 月 20 日 水曜日

 「「記憶」」の話、大脳の何処に蓄積されるのか、などの話をしていますが、人間が人間世界を気持ちよく気楽に楽しく生きる事が可能となる話をしています。

何度か、繰り返して話をしていますが、此の世を自分だけで一人で生きるのではありませんから、他者の事や事情や状況などを考えてあげられる{{人}}になっていなくてはなりません。

相手の気持ちを考えてあげられる{{人}}でない場合ですね・・、

当方が持ち出した素晴らしい言葉ですが、「「身代わり不可症候群」」と表現しました。

 

 再度、伝えておきますが、「「身代わり不可症候群」」ですね。

自分の事だけを考えて、何時も自分が「得をする事ばかり考えると、逆に、自分の{こころ}は疲れ果ててしまいます。

相手の気持ちを明確に考えてあげて、相手の気持ちになってみる事が大切ですよ。

相手の気持ちを理解できれば、「不満」、「不平」、「悔しさ」、「惨めさ」、「悲しみ」、「怒り」、「孤独」、「劣等感」、「やきもち」、「嫉妬」、「怨念」、などなど抱える事は無いでしょう。

「「海馬」」にしろ、「「側頭葉」」にしろ、或いは、大脳のどの部分にしろ、自分の過去を掘り起こしてから自分の人生を{{再解釈}}しないと、「器」の大きな人間になれません。

どのような人達に出会っても、「劣等感」さえ無ければ、苦しいとか辛いとか惨めに感じる事などありませんからね。

 

 最近では、当方も、人間の「「記憶」」が大脳の決まった部分に、この場所にしか記憶されていないと、言ったような表現は少し無理なのかとも感じさせられています。

この問題は、読者に少しながら一部は誤解をさせたような気持ちもあります。

ですが、突き詰めて考えると、人間の記憶が大脳の何処に記憶されたとしても、当人が自分の過去を思い出してくれないと、あまり意味が有りません。

「「海馬」」にしろ、「「側頭葉」」にしろ、或いは、「「記憶」」が大脳の何処の部分に蓄積されていても良いでしょう。

究極的には、記憶の回想を可能な限りしておいて、其処の記憶の誤解を解ければ最高に良いのです。

 

 記憶を散策して、再度の事、自分の正しい記憶を再構成していくべきです。

やりっぱなしの人生と過ぎ去ったままの人生観だけでは、残された人生を生きて欲しくないと考えます。

人間って、幼い頃から自分勝手に生きていますよ。

沢山の人達は、幼い時の自分を含めて、真面目な素直な自分だと思って錯覚しています。

それでも、自分は真面目だと自惚れて生きていますから、{{愚かな人間}}ですが、自分で気づいていないのだから悲しいものです。

人生では、誰もが、少しでも立ち止まり<<自分の過去>>を見つめる事、「「こころ洞察法」」=「「マインドサ―チセラピィ―」」を体験下さいませ。