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2009 年 12 月 のアーカイブ

<<人間の犯罪>>犯罪について(2)

2009 年 12 月 5 日 土曜日

 {発達心理学}なる言葉があります。

正に、その通りです。

満二歳までに、第一期の{{不信感}}が形成されると、言います。

その後に、第二期の{{不信感}}が形成されると言われています。

こんな風に言われていますが、それ以前の赤ちゃん時代にも<<常識では考えられない程の、心の葛藤を溜め込んで>>いきます。

例えば、誕生後の8週目には、赤ちゃんが無意識的にしろ、自分に{{愛情}}を与えてくれているか、どうかの判断もしているとも、言われています。

この期間を「「臨界期」」とも言っているようです。

 

 勿論、前述しましたが、乳児期において、人間のスキンシップや声かけや、ミルクを飲ませるのに哺乳瓶のみで与えて、声かけやスキンシップなど何も無ければ、人間として育たないでしょう。

この事については、乳児や幼児や小学生や中学生になっても、矢張り、周囲からの適度のストレス=スキンシップや声かけなどが重要でありましょう。

人間は、人間として育ち社会で生きていける人間となるには、それなりの人間からのストレス(良きにつけ、悪きにつけ)をもらいながら、人間との出会いと別れなども記憶していかないと、人間として育ちません。

 

 人間は、此の世を一人では生きていけません。

誰かと一緒に生きるのが、人間でしょう。

さもなければ、余程に自分の愛する物を抱えて生きるか、それでも、自分の愛する人が近くに居て欲しいでしょう。

人間の「「孤独」」って、怖いものです。

何故って、歪な行動を起こすからです。

歪な会話だけならば、「犯罪」に至る可能性は少ないですが、それでも「犯罪」になるケ―スは、多々ありますね。

歪な行動、全てが、その人の{{心}}のなせる「業」でしょう。

 

 「「心」」が、歪な「「会話」」と「「行動」」を起こしています。

そうであるからには、人間は「「心」」が中心ですから・・・・「「心」」が、素直に育ち、大人になっても<<歪な心>>とならないことです。

人間社会の様々な移り変わり、両親の生活の移り変わり、結婚している子供達でさえ、会社勤めでの転勤、遠隔地への単身赴任での仕事などなど、以前の家族の生活が移り変わっている場合があります。

誰と、どんな環境に出くわしても、確固たる自分を確立しておけば、自分の「心・人格」も崩壊してパニックとなる事は無い筈です。

それでも、本当に理想的な「アイデンィティ―」、「心」で育つ事は少ないものです。

<<人間の犯罪>>犯罪について(1)

2009 年 12 月 3 日 木曜日

 人間社会は文明化??? 科学と技術が発達すると言いながら、一体に、人間社会は随分と変化して来ています。

真実に、平和な方向へ向いて走っているのでしょうか。

いや、確実に、不確実で不透明な社会に近づいていますね。

「幸福な人間社会」は、全くと、訪れて来ないようです。

 

 小学入学前の幼稚園の児童でさえ、「事件」や「犯罪」を起す場合もあります。

盗み、自分意外の他者への暴行、或いは、落ちていた金銭などは拾っていくでしょう。

これも、「犯罪」になるかも知れません。

幼稚園児でも、結構と<<それなりの喧嘩>>をします。

喧嘩の度合いが過ぎると、「犯罪」にもつながっていきます。

幼稚園で{何かが起こる}って事なども、結構、沢山起こって来ているでしょう。

幼稚園での行事などにても、親が勝手に「犯罪」を起す場合がありますが、これも、自分の子供と、他のお母さんの子供との比較からでの「事件」や「犯罪」のようです。

小学校に入ると低学年にても、案外と、いじめ、登校拒否、盗み、なども増えてきます。

PTA関連の親達が勝手に、心秘かに喧嘩をしている場合もあります。

 

 「三つ子の魂、百まで」と言いますが、乳児、幼児、幼稚園の頃から、既に、心の病は{{形成されて}}来ているのです。

「親の因果が、子に報い」と言う言葉も、間違いありません。

母親や父親が、子供が赤ちゃんの時から、思い思いに自分勝手に好きな事柄を行なっているのではないでしょうか。

エゴ・・だけとは言わないでおきましょう。

人間社会の変遷もあるでしょう。

 

 昔から、人間は皆が真面目で素直であったかと、言われれば、勿論、そうではなかったと考えます。

昔から、色々と「事件」や「犯罪」を起している人達も居ます。

昔からも、赤ちゃんを置いたままで自分勝手な行動をする親達は居たのですから、悪いことをする人達がいたのも無理はないでしょう。

現在でも、同じような悲しい行動を自分勝手にする親達も居ます。

親も生きるため、子供達に食事を与えるために、仕事をしなくては仕方がない時代にもなって来ています。

そう、良い事とか、悪い事とかなど、当方で決め付ける事ではありませんが、それ程に世の中が変化して来ています。

「犯罪」も、増えて来るのは当然でありましょう。 

<<心の世界>>過去の自分を知る(9)

2009 年 12 月 1 日 火曜日

 何度か繰り返しますが、少しながら地位や名誉の有る人達が、次のように話します。

「「過去を振り返らずに、現在と未来だけを向いて生きればいいのです。」」なんて、言う人達の心の<<愚かさ>>ですね。

そんな生き方が出来る間は、まだ良いのです。

でも、そんな生き方をしていると、必ず、未来において自分の人生の<<迷い道に踏み込んで>>しまうでしょう。

当方、それが絶対に悪いとは、言いません。

でも、同じ未来を眺める事柄に拘るのであれば、自分の「死」をとりつめて欲しいのです。

 

 普通、人間にとって、最大に怖いものは、自分の「死」です。

また、人生を生きる上で、自分の「死」を生身のうちに悟った人は、そんなに大きな人生の壁に衝突しないだろうと言えます。

そう、自分の「死」について、納得していれば、少々の心の葛藤には耐えられるものです。

「己の過去を知る」の最終稿としますが、人生を生きるには、「懺悔」と「無常観」の悟りが最大に重要でしょう。

少し、難しくなりましたが、恐縮です。

でも、この言葉だけでも良いですから、記憶に留めて下さいませ。

 

 「懺悔」・・・自分の過去を振り返らないと、絶対に「懺悔」は出来ません。

「無常観」・・・ここまで悟るには、随分と心身の修行をしないと悟れません。

「無常観」→「無我」→「涅槃」の順序で、人の心は流れて行きます。

仏典の中で、一番に大事な言葉であり、大事な<<悟りの境地>>への心の流れですね。

「無常観」を悟るのは、あまりにも難しいので、精々と「懺悔」だけでも体験されれば、人間は幸せになれますと、言われています。

当方は、宗教には全く信心は有りませんが、それでも、仏教観では、勉強してみると随分と勉強をさせられます。

「懺悔」とは、簡単に人は言いますが、体験しないと「懺悔」の境地に至る事は出来ません。

 

 繰り返しますが、懺悔と、簡単に言っても、それなりの体験をしないと分かりません、。

此の世を生きるには、当方、本当に「懺悔」は重要と考えます。

「過去を振り返らずに、未来を向いて生きる」とは、「懺悔」ができない事になります。

「無常観」を悟るには、未来の未来まで眺める事ですが、肝心の自分の此の世からの消滅には眼を向けません。

自分の消滅を、体で悟る事が、「無常観」を悟る事です。

自分の過去を知る過程で、そんな「懺悔」や「無常観」を悟っているかと問われれば、直ぐに、悟っていないと分かるでしょう。

「懺悔」って、凄く大切、「・・ネット心理療法」で、可能です。