‘講演’ カテゴリーのアーカイブ

<<講演>>人の話「会話・行動・心」(7)

2006 年 7 月 1 日 土曜日

 「生い立ちの心」が、全ての基本だと何度も話しています。

しかし、これだけの話では理解出来ないでしょう。

人間の心って、非常に面白いものです。

 

 人対人、人対環境、などの問題であり、生きている自分の眼前でのどんな出来事や他人に対しても、自分が対応できる能力さえ持っていれば充分なのです。

人が成長して大人になり、何らかの仕事や役割などこなし、幾らかの金銭、或いはそれに類するものを得ることが出来て、人は人生を全うできるのです。

天災・天変地異などによって、衣・食・住も出来ない環境に投げ込まれない限りは自分の人生を生きて行く筈なのです。

 

 沢山の人達の悩みや苦しみ、心身症、神経症、うつ病、心と人格の脆弱さ、アルコール依存、非行、犯罪、薬物依存(ここでは、大麻、覚せい剤、麻薬、など)、・・・これらの問題全ての原点は「心」が基盤になっています。

上記の事柄は“異常会話”、“異常行動”、“異常な心”などと言えます。

 人は、此の世に誕生してから心身共に成長して行きます。

自分が成長したくないと思っても、時間の流れとともに「心」は成長しないかも知れませんが、「体(肉体)」は大きくなって行きます。

大人になる事が嫌だとしても見掛けは<大人>になります。

見た目は大人でも人間社会で生きる以上は、社会で仕事や役割を最低限でも“こなせる人間”であり、自分で稼ぎ「衣・食・住」、自立した人にならなければ駄目です。

 

 面白いというか、本当に大変な事なのですが、人は此の世に誕生した時から、自分の親から「心の形」を刷り込まれて育って行きます。

昔から「三つ子の魂、百まで」、「親の因果が、子に報い」などの言葉が言い伝えられていますが、正に“その通り”なのです。

 親から植え付けられた、或いは、植え込まれた“心の形”を「超自我」とも表現されます。

「自我」は、自分の意志で作り上げたものではなくて、誕生以来の成長する過程において親から意見や注意・説教などされて、大脳深くに“親の考え方”或いは“親への反発心”などが刷り込まれて無意識的に自分の現在の心を強迫しています。

 良しにつけ悪くにつけですね・・・。

ですから、親から植え込まれた“心の形”即ち、「超自我」に気づき「超自我」を納得してあげた時に、初めて“親の心から解放”されて、人間個人が人生で自由に自分の心を操作できて生きる事が可能となるのです。

 

 少し難しい表現になりましたが、“悩み苦しむ”などと言う事柄は、「自分の意志で自分の人生を生きる事が出来ない」だけなのです。

 親の考え方、“親も悩める人間だったのだ”と、理解できた時に、人は大きな「心の自由」を得る事ができます。

<<講演>>人の話「会話・行動・心」(6)

2006 年 6 月 27 日 火曜日

 人間此の世を生きていると、楽しく人生を送っている様に見えても案外と心の底では悩んだり苦しんだりの生活をしているものです。

極端に表現するならば、建前ではにこにこ笑顔で笑っていても、心の底では泣いている場合が沢山とあります。

自分の深い心が動いているのですが、無理やりに蓋をしながら化けて生きているものです。

悲しい心に、その上に蓋をしようと思って出来ない状態にもなって来ます。

そうすると人前に出る事が出来なくなってしまったり、出たとしても悲しい表情、疲れた表情などをして顔も体も草臥れてしまった状況を、他者に見破られてしまいます。

 

 人は生まれながらにして、「食欲」、「性欲」、「睡眠欲」、「名誉欲」、「金銭欲」などを抱えて生きるとされています。

勿論、その人の置かれた立場と状況によって、上記五つの中のいずれかが強い、と言った状況となるでしょう。

一度に沢山を求める人も居ますが・・・。

 “金銭欲” “名誉欲”は本能とも言えるし、後天性のものとも言えるし・・微妙な感じですね。

どんな途上国でも、人は“金銭欲”や“名誉欲”などについて抱えています。

「心」そのものは見えませんが、人だけでなくとも動物をしっかりと観察していますと、“金銭欲”は別にして、“名誉欲”に近いものは充分に人の眼に映るものです。

喜び、楽しみ、嬉しさ、幸福感、歓喜、至福感・・・などの人の心があります。

一方で、悩み、苦しみ、悲しみ、淋しさ、孤独感、嫉妬、怒り、恨み、憎しみ、怨念、虚しさ、虚ろ、苛立ち、爆発感情、暴力感情、自殺感情・・・など、どうしようもない気持ちや感情などが、入り乱れている場合も結構とあります。

 プラス思考で居られる時は良いのですが、一旦マイナス思考に陥ると、なかなか其処から抜け出る事は<不可能>ですね。

そう、人生の一生を一度もナイナス思考にならないで生きる事が出来れば最高でしょうが・・・。

人は皆同じ一度限りの人生で、命を燃やして一生を生きる事が素晴らしいとは思われます。

 

 人は様々な「心」を抱えて生きています。

基本的には“喜び”か“悲しみ”、いずれかの心に分かれるでしょう。

その間の中間的な考え方の人達もいるかも知れませんが・・・。

考え方の全ての基本になるのは、「生い立ちの歩いて来た過去の心」です。

だから、その「基本の心」を点検すれば全てが上手く行きます。

<<講演>>人の話「会話・行動・心」(5)

2006 年 6 月 26 日 月曜日

 異常会話、異常行動などは、「心」を土台にして発せられるものです。

異常会話も異常行動も、大脳性理学的に脳脊髄液、神経内分泌、免疫などと絡まって表現されてくるものの様です。

「心」がパニックとなると、善悪の判断も出来ない・・・、異常会話、異常行動などを引き起こす・・・、この様な事柄も全てが過去の深い意識ですね。

無意識と潜在意識と顕在意識(現在意識)のアンバランスの問題が関係しています。

当然、脳脊髄液のバランスも壊れているでしょう。

 

 「心」と「体」は密接に関連しています。

その中間である脳脊髄液や血液にも変化が起こって来る様ですね。

人の記憶は、大脳の“海馬”と言われる場所に蓄積されたまま、人の一生に残っていく様です。

現在を生きていると、皆さんの日常生活では“過去など関係ない”または“過去は意識せず”暮らしているものです。

怖いですね。

 

 自分の過去の心が現在の全てを動かしています。

先天性や素因などに関連している場合は仕方無いにしても、体までが自分の過去の心に支配されているものです。

“行動”というものは、{体が動く}というものでもあります。

人は、自分から外を眺めて生きる<外観的>な生き物でもあります。

全ての生き物は<外観的>な存在でもあるでしょう。

人は明確に「心」を持っていますし、その「心」が自分の全てを支配しています。

そう、人は自分の過去の記憶を何時も明確化して生きているものではありません。

ですが、その気づいていない無意識の中に動いている“トグロを巻いている「心」”が一番に大切です。

 

 今現在に考えている事柄は、過去の心に裏打ちされています。

人が現在と未来を考える事は、兎に角その人が過去から現在に至るまでの心で作り上げた心、その心で全てを判断しているのです。

 皆さんは、“自分の過去の心は関係ない”と思われていませんか?

両若男女を問わず、医師も宗教家も心理士も、どんなにお金持ちの人も、科学者も、地位のある有名な人も・・・、一度でも良いから自分が生まれてからの過去の心の足跡を振り返り辿ってみる事です。

どんなに自分は“賢い”、“偉い”と思っていても自分の過去を振り返ってみない限り理解出来ません。

 

 或る人が当方に「人生を悩まずに生きるなんて不可能だ」言われました・・・。

簡単に出来るのです。

その人に対して一言「人生勉強が足りていないので、仕方ない・・・ですね・・・」。

<<講演>>人の話「会話・行動・心」(4)

2006 年 6 月 24 日 土曜日

 今回は、人の犯罪について少し話をしますが、全て「会話・行動・心」と関係します。

 マスコミ、検察庁、或いは、裁判所で、よくある話です・・・。

犯罪時に、この人は“善悪の判断能力を持っているか否か”と言う{争点}があります。

この事についてですが、日頃は善悪の判断を出来ていた人でも、心の葛藤が蓄積すればその時には善悪の判断が出来ない状態になるものです。

その人の“人格水準”とも言えますが、一般的には、誕生から現在に至るまでの過去の生い立ちの中に、全ての{答え}はあるものです。

 「堪忍袋の尾が切れる」或いは「結んだ紐が切れる」と、パニック状態となります。

パニックの状態では、誰も<善悪の判断は出来ず>に何をしでかすか分かりません。

登校拒否、引きこもり、出勤拒否、アルコール依存、不順異性交遊、万引き、詐欺、窃盗、殺人などにしても、善悪の判断が出来なくなるからするのです。

ある意味で彼等は、慢性のパニック状態が続いていると言っても良いです。

善悪、“これは善”、“これは悪”の判断が出来る人は、絶対<自分にとってマイナス>になる事柄はしませんし、「これ以上は駄目だ」と判断できます。

即ち、「前後の見境もつかない状況」そんな心理状態におかれるので“してはいけない”と平常人が思う事を彼等は犯してしまいます。

 

 この様な“心のパニック状態”になるのはどうしてでしょうか。

犯罪を行う者皆が、“罪の意識”、“自分の悪の意識”さえ持っていれば、余分な行動や余分な会話、犯罪なども出来ません。

“自分は悪い人間だ”と体で自覚出来れば一歩を踏み外せないでしょう。

「自分がこれをしたら、後が大変だ」と理解出来る人であれば、大きな罪悪な出来事をする事は出来ません。

 様々な逸脱行動、逸脱会話、犯罪にしても、自分の眼前の判断を上手に出来ないだけなのです。

出来ないのは、自我の形成の問題であり人格水準の問題でもあります。

自我形成の脆弱な人達は、眼前の人達や環境、状況に<自分の心が振り回されて>不安定ですね。

{過去の心}が{現在の心}を作るし、現在の心が{未来を見る心}を創造します。

未来に向かって生きて行く自信が無くなった時に、心は限りなく不安定となり、規則や条例、法律を超えて、してはならない事柄までやってしまいます。

 

 過去から現在にかけての無意識的な“恨みの感情”や“不平や不満の感情”が、自分の現在の気持ちや心を、下から押し上げて自分の心を苦しくしています。

罪を犯しても罪悪感がありませんので、犯罪時には<善悪の判断>を、誰も持っていないと言えます。

ですが、犯罪者の心を・人格の形成を正確に判断して、裁判がなされているのでしょうか?可笑しいですね。

<<講演>>人の話「会話・行動・心」(3)

2006 年 6 月 20 日 火曜日

 心の話をしていますが、視野を変えて見詰めてみます。

悩まない人になるためにですね・・・。

人は一体、どんな心を持っているか?

如何なる心を持って人生一生を終わるのか?

知っておられれば良いのですが・・・・・。

 

 最初に、“自分の心”を充分に知っていないと自分以外の他者“他人の心”が見えません。

「心の学習」とは、心の底から“人生とは何?”と、真剣に考えて勉強しないと駄目なのです。

 俗に“本音”と“建前”と言う言葉が有りますね。

多分皆様は、この言葉は聞いたことがあると思います。

しかし、いくら言葉を知っていたとしても実際にその意味が理解出来ていないと役立ちません。

 

 謙虚になって、ふと立ち止まり自分の心を見詰めると、沢山の気づいていなかった心が見えて来ます。

自分の心を自己探求する方向性が大事です。

本当の自分、“自己とは?”、“自分の存在とは?”などの心をどの方向から眺めるかなのです。

「自分の心は充分に沢山知っている」と自己主張されても、自分流で勝手に理解出来ていることでは駄目なのです。

 人には、“性格”というか厳密には“人格”と言った方が良いのでしょう・・・、その人格は、会話や行動にしろ、全て「心」が土台になっています。

即ち、「心」が会話や行動を動かしているので、人間にとって一番に大切なものは「心」なのです。

「心」が丈夫で、“自分の心を自分でしっかり操縦”できれば人間社会を気楽に生きていけるのです。

自立した人間として此の世を生きるには「心の学習」が物凄く大切なのです。

単なる{心理学}を勉強しただけでは、人間世界を上手に生きる事は無理なのです。

 

 人が人間社会を生きるには、家族の中、学校の中、職場においても、常に誰かと何らかの関係がある筈ですね。

自分以外の人に対して、上手に付き合いが出来る事。

自分の投げ込まれた状況や環境に上手に対応と適応が出来る事、それで充分です。

そして本当に人生を気楽に生きるには、眼前の人達皆に対応できる自分が必要です。

何事が起こっても立腹しない事です。

そのためには、自分の心の{器}が大きくないといけません。

 大きな人間、誰とでも生身の付き合いが出来る人に・・、また付き合えなくて苦悩を感じるのであれば、そんな自分に納得する事が大切です。

「納得」するところから心の平安を得ることが出来るし、「納得」出来れば、そこから這い上がる努力が必要であると感じる筈です・・・・。

本当の自分、自己に「納得」し「認める事」です。

 

“恥ずかしい”、“劣っている”、“駄目人間”と認めれば、努力せざるを得ないです。