‘当方の論文’ カテゴリーのアーカイブ

<<当方の論文>>「「論文」」&「「論考」」5

2011 年 2 月 22 日 火曜日

 総合的に、最後に考えましょう。

フロイド&ユング等の言っている事は、理解できない訳ではありませんが、彼等は「「顕在意識」」が小さいのだと言っているのと同じです。

 当方、確かに「「今、使用している{{こころ}}の部分」」→「「顕在意識=現在意識」」は、「「無意識」」も「「潜在意識」」も使っているのですが、人々によっては、歪な{{過去を抱えています}}ので、自分の歪な過去の{{こころ}}を切り離して生活をしているようです。

時折には、己の過去を無意識的に切り離している方達が居ますので、現在の{{こころ}}も全くと<<まとまり>>が無い場合もあります。

 

 又、境界例人格障害の人達は、別格で、自分の現在の{{こころ}}と自分の過去の{{こころ}}が全然と繋がらない場合もあります。

人生を生きるのに、随分と苦労を致します。

自分が苦労をするのですが、周囲の苦労を全然と理解しません。

彼等には、過去の{{こころ}}が無い、のと同じくらいですね。

 さておいて、人間は歳月と共に脳味噌の中には、歩いて来た経験と体験が堆積して詰まっています。

今の{{こころ}}は随分と大きな「「意識」」を抱えています。

また、抱えていると言えば、表現が悪いかも知れませんけれど、だとすれば、遠い過去の{{こころ}}と少し遠い過去の{{こころ}}が積み重なってから、自分の目前を判断しながら、日常生活をしています。

 

 日常生活を暮らすのに、「「ストレス」」や「「苦しみ」」などを感じるのであれば、自分の生い立ちの過去から、{{こころ}}の整理を重ねていく事、過去を振り返りながら自分の{{こころ}}を見つめ直さないと駄目でしょうね。

 そこで、「「顕在意識」」は、大きな大量の{{こころ}}を含んでいますので、「「無意識」」や「「潜在意識」」などよりも、遥かに大きな「「こころの世界」」であります。

何度か述べましたが、ピラミッドの形状でもなく、海面に浮かぶ氷山の一角でもなく、絶海孤島の離れ島でもありません。

「「顕在意識」」とは、そんなチッポケな「「意識」」ではありません。

 

 どうぞ、もう一度、精神科医や診療内科医の医師達は、再度のこと、{{こころ}}の世界を考える必要があります。

巨大な「「顕在意識=現在意識」」を開拓して、人生を楽しく嬉しく悩まないで苦しまないで生きること、そうすることが、病気にもならないし喜んで生きられる事になるのです。

 最近、いや、現在まで、「「無意識」」や「「潜在意識」」は大変に大きくてユングなどよると、地球上の海にしろ、海陸が海底で繋がっているほどに巨大で大きなものだと言っています。

或いは、山々が裾野で繋がっているように、その海底とか谷底の繋がりが「「無意識」」だと言うほどですが、当方は、矢張り、反対の「「考察と意見」」です。

<<当方の論文>>「「論文」」&「「論考」」4

2011 年 2 月 21 日 月曜日

 前回の記載で、「「反省」」と「「懺悔」」だと記載しましたが、今の現在の自分の大変に大きな「意識」でもって、自分の小さい「過去の意識」を探して散策する事、そうすることで自分の小さい「過去の意識」の中に{{宝物}}がありますので、見つけ出すことが大事です。

 自分の「「意識」」を知らないでは、此の世を楽しく喜んで生きる事なんて出来ません。

精神医学界でも、新しい{{こころ}}の世界については発表されておりません。

勿論、長期間にわたり、「「心理療法」」に携わった人でないと、新しい発見は出来ませんからね。

 

 精神と医学、{{こころ}}と医学の世界では、神経内分泌免疫系などの実験が随分と前から行なわれています。

だが、{{こころ}}の新しい発見の「「論文」」は見当たりません。

 当方、本当に長期間にわたり、「「心理療法」」を行なってきましたが、まだまだ、誰も新しい{{こころ}}の世界観に触れていません。

「「顕在意識」」の方が、遥かに巨大の筈であります。

「「無意識」」や「「潜在意識」」は、「「顕在意識」」の下方にありますが、トグロを撒いて小さく存在するだけです。

 

 「「無意識」」も、大きく分けると{{三通り}}になるでしょう。

一つは、遠い過去の自分の記憶から思い出そうとしても、なかなかと思い出さない{{こころ}}=意識の世界ですね。

 二番目としては、かなり現在に近い{{こころ}}でしょう。

思い出そうとすれば、案外と簡単に思い出せる{{こころ}}の世界であり、あまり遠い過去のものではない場合です。

 更に、三番目は、現在と直接に接触しているような「「無意識」」の世界が有ります。

子供達、いや、大人でも良いのですが、仮に、水泳とか地上での運動でも良いのですが、今の状態で体を動かすのに、一つ一つ{{こうこうかくかく}}などは、考える余裕も時間も有りません。

 

 独りで自然に、体が反応するのです。

自分の{{こころ}}を即座に考えて、体の四肢にしても、何十度も曲げて瞬間的に、また、この位だけ伸ばすなんて、自分でゆっくり考える暇も有りません。

即座に、自分の{{こころ}}と{{からだ}}を如何にするかでなくて、「「無意識」」で体の反応してくれます。

  そんな現在の{{こころ}}と{{からだ}}を使用するのも、今の自分の抱えている現在の「「意識」」を使っています。

「「現在意識=顕在意識」」の方が、遥かに、「「無意識」」や「「潜在意識」」の方より大きいです。。

皆さんに、少しだけでも、熟慮して欲しいと思います。 

<<当方の論文>>「「論文」」&「「論考」」3

2011 年 2 月 18 日 金曜日

 2回にわたって、「「論考」」を重ねてきましたが、患者さんの{{こころ}}を治すために、或いは、普通の人達&社員や管理者の{{こころ}}の教育や立派な「「人格矯正」」へのために、何が一番に重要かと言う事です。

 誕生の頃の{{こころ}}を思い出すのは困難でしょうが、3歳頃の思い出は案外と記憶の回想が出来るものです。

 「「顕在意識」」を「「雨傘」」や「「日傘」」に例えるならば、人間は{{根っ子}}の方の{{こころ}}から明確にして治しておくべきでしょう。傘の柄からですね。

 そうする事で、「「雨傘」」も「「日傘」」も立派に捩れないで開くものです。

 

  そう、人間の{{こころ}}=「「顕在意識」」も立派になってゆくのだと言っているのです。

くねくねと捩れた茎の上には、また、「「傘」」の下に弱い棒が有って支えているのでは、どうにもなりません。

壊れる、だけでしょう。

  人間の{{こころ}}も面白いものです。

過去の{{こころ}}が歪であると、現在の{こころ}}も歪になってしまうのです。

だから、人間の{{こころ}}も、現在の{{こころ}}を治そうと思わないで、過去の{{こころ}}から治療して欲しいものです。

 

  何故か、全ての人間の「「会話」」や「「行動」」や現在の「「こころ」」は、自分の過去の{{こころ}}から操作されていますからね。

どうぞ、松茸や椎茸にしても、或いは、「「雨傘」」や「「日傘」」にしても、その根っ子になる場所を矯正しなければ、役立ちません。

人間の大きな「「顕在意識」」を支えるためには、何処が一番に大切かを知って欲しいものです。

   繰り返しますが、当方は、フロイドやユングのような考え方には反対なのです。

 何処までも、「「顕在意識」」は、逆三角形の一番の上であり、お皿の様に大きく広がっているものです。

「「無意識」」や「「潜在意識」」の方が、遥かに小さいものですけれどね・・・!!

 

  学校や職場にて、歪な人間が居た場合はですね、仮に、彼等を治してあげたいとか、彼等の{{こころ}}&「「性格」」&「「人格」」を何とか矯正できたらと言う場合には、説教や助言では100%不可能ですから、注意が必要です。

  「「顕在意識」」の存在と認めるのであれば、そんな上方の「「傘」」だけを治そうとするのではなくて、下方の「「潜在意識」」や「「無意識」」を矯正するのが、一番に最高でしょう。

 人間は、{{過去のこころ}}を置き去りにしたままでは、{{現在のこころ}}は絶対に変わらないでしょう。

「「反省」」も、過去の{{こころ}を見る事であり、「「懺悔」」も過去の{{こころ}}を見つめて、「「告白」」する事です。

<<当方の論文>>「「論文」」&「「論考」」2

2011 年 2 月 17 日 木曜日

 「「顕在意識」」の方が遥かに大きくて、大量の「「意識」」を抱え込んでおります。

唯、人間の歪な{{こころ}}さえ、或いは、歪な「「会話」」や「「行動」」さえ、全ての問題は「「潜在意識」」や「「無意識」」から、強迫されていますので、「「現在意識」」&「「顕在意識」」」は、大量の{{こころ}}を抱えています。

 そんなに小さな氷山の「「一角」」でもないし、絶海孤島の「「離れ小島」」もありません。

そんな考えは、当方は理解できますが、学問的になりますと、「「顕在意識」」は絶対に大変に大きな{{こころ}}の塊と考えても間違いありません。

 

 当方が気づいた事柄は、「「無意識」」と「「潜在意識」」」と「「顕在意識」」の成り立ちは、或いは、表現は、「「無意識」」は小さくて(小さいと言っても、巨大なものでしょうが・・・)、「「潜在意識」」もまた、そのように「「顕在意識=現在意識」」」に比較すると、まだまだ、小さいものになるでしょう。

 ピラミッドや富士山の頂上を「「顕在意識」」で表現するのは、少しながら考え方が違っているのではないか、どうしても、フロイドやユングのような考え方に納得できない状況で有ります。

彼等の理論は、理解できますけれどね。

 

 当方が、感じるのは、氷山の海面に浮かぶ「「一角」」や、絶海孤島の「「離れ小島」」などの、そんな小さな塊が、「「顕在意識」」ではないと、伝えているものです。

「「顕在意識」」は、遥かに巨大で大きな{{こころ}}の塊であるでしょう。

しかも、「「無意識」」や「「潜在意識」」から裏打ちされて動いているのが、「「顕在意識」」ですからね。

 当方が、表現するのは、人間が雨振りに使用している「「雨傘」」か「「コウモリ傘」」のようなものです。

また、陽照りの中の「「日傘」」みたいなもので、「「傘」」が「「顕在意識」」だと言っても良いでしょう。

 

 そう、「「顕在意識」」の方が、遥かに、大きいですからね。

その下に存在している、「「潜在意識」」、更に、下層にある「「無意識」」の世界を背負っているのが、「「顕在意識」」=いまの現在の{{こころ}}ですからね。

「「日傘」」や「「雨傘」」の表現が、どうかと問われれば、松茸(マツタケ)や椎茸(シイタケ)でも良いでしょう。

茎が少し大きくても構いませんね。

 でも、当方は、根っ子は、或いは、三角形にしても、下層は現在の{{こころ}}=「「顕在意識」」に比較すると、小さいものと熟慮した上で結論を出しています。

どんなに考えても、現在の「「意識」」は小さいものと、彼等は言っていますが、どんなにいびつな{{こころ}}を持った人達、ニ―ト、フリーター、不安障害、うつ病、非行、暴力、犯罪にしても、「「顕在意識」は大変に巨大なものです。

<<当方の論文>>「「論文」」&「「論考」」1

2011 年 2 月 15 日 火曜日

 当方、随分と長期間にわたり「心理療法」に携わって来ております。

本当に長い間、{{こころ}}の治療に関わって来ましてから、ふと、気づいたものです。

精神医学界ででも、フロイドやユングの考え方が受け入れられているものと思われます。

 ですが、沢山の{{こころ}}について記載していまして、気づいたのは、人間の「「顕在意識」」は氷山に浮かぶ海面の一角の氷の欠けら「「一塊」」とは、違うのです。

或いは、また、絶海孤島の中の小さな離れ「「小島」」ではありません、ね。

考え方の気持ちは、理解できますが、どうしても不都合だと考えざるを得ません。

 

 人間の現在の{{こころ}}は、誕生後から、新生児~乳幼児~小児~児童~学童~生徒~学生~青春期~成人期~壮年期~高齢期~~最後は「「死亡」」のみでしょう。

そう、ここでは、遺伝子の中に組み込まれた「「こころ」」なんて、まだまだ、人間には解明されておりません。

 当方は、そんな不確定な事については、一度も話をした記憶はありません。

一方で、母親の胎内に居る時に、どのくらいの{{こころ}}=「「意識」」が植え込まれるかも、未だ、不確定でしょう。

{{こころ}}については、悲しいかな、矢張り、まだまだ、解明されておりません。

当方が感じるのは、母親の胎内にいる胎児には、親が神経質になったりして、動悸や脈拍の変動で頻脈など、或いは、呼吸が早く乱れたりしますと、その位の影響は胎児にも多大に受けるでしょう。

 

 そう、遺伝子については、人間の{{こころ}}が如何なる状況で発現されて来るかは、まだまだ、明確な答えは出ていないみたいです。

統合失調症などは、遺伝子とも少しながら関連しているとも言いますが、遺伝子とは関係ない方の統合失調症もあるみたいです。

 仮に、新生児~乳児の乳離れの間でさえ、人間のスキンシップが一切となければ、そんな人には、それなりの人間らしさを持たないままで、小児となり、普通の人間としては、育たないでありましょう。

新生児~乳児の時期でさえも、そんな環境や{{こころ}}を植え込まれると、決して普通の人間には育ちません。

この事は、明白でしょう。

 

 それで、人間は、今、悩んでいる事柄については、「「顕在意識」」は、氷山の一角だから、もっと、下層の「「潜在意識」」や「「無意識」」を解明して、過去の自分が{{どんな人間で、どんな意識を抱えていたかを知る}}事が重要だと言うのです。

 そんな気持ちは、当方には沢山と理解できますが、よくよく考えると、「「顕在意識」」が氷山に浮かぶ「「一角」」だとか、大海の離れ「「小島」」だと言う考え方が、どうしても納得できません。

しっかりと、「「顕在意識」」とは、如何なるものかを考えましょう。