「「記憶」」の話、大脳の何処に蓄積されるのか、などの話をしていますが、人間が人間世界を気持ちよく気楽に楽しく生きる事が可能となる話をしています。
何度か、繰り返して話をしていますが、此の世を自分だけで一人で生きるのではありませんから、他者の事や事情や状況などを考えてあげられる{{人}}になっていなくてはなりません。
相手の気持ちを考えてあげられる{{人}}でない場合ですね・・、
当方が持ち出した素晴らしい言葉ですが、「「身代わり不可症候群」」と表現しました。
再度、伝えておきますが、「「身代わり不可症候群」」ですね。
自分の事だけを考えて、何時も自分が「得をする事ばかり考えると、逆に、自分の{こころ}は疲れ果ててしまいます。
相手の気持ちを明確に考えてあげて、相手の気持ちになってみる事が大切ですよ。
相手の気持ちを理解できれば、「不満」、「不平」、「悔しさ」、「惨めさ」、「悲しみ」、「怒り」、「孤独」、「劣等感」、「やきもち」、「嫉妬」、「怨念」、などなど抱える事は無いでしょう。
「「海馬」」にしろ、「「側頭葉」」にしろ、或いは、大脳のどの部分にしろ、自分の過去を掘り起こしてから自分の人生を{{再解釈}}しないと、「器」の大きな人間になれません。
どのような人達に出会っても、「劣等感」さえ無ければ、苦しいとか辛いとか惨めに感じる事などありませんからね。
最近では、当方も、人間の「「記憶」」が大脳の決まった部分に、この場所にしか記憶されていないと、言ったような表現は少し無理なのかとも感じさせられています。
この問題は、読者に少しながら一部は誤解をさせたような気持ちもあります。
ですが、突き詰めて考えると、人間の記憶が大脳の何処に記憶されたとしても、当人が自分の過去を思い出してくれないと、あまり意味が有りません。
「「海馬」」にしろ、「「側頭葉」」にしろ、或いは、「「記憶」」が大脳の何処の部分に蓄積されていても良いでしょう。
究極的には、記憶の回想を可能な限りしておいて、其処の記憶の誤解を解ければ最高に良いのです。
記憶を散策して、再度の事、自分の正しい記憶を再構成していくべきです。
やりっぱなしの人生と過ぎ去ったままの人生観だけでは、残された人生を生きて欲しくないと考えます。
人間って、幼い頃から自分勝手に生きていますよ。
沢山の人達は、幼い時の自分を含めて、真面目な素直な自分だと思って錯覚しています。
それでも、自分は真面目だと自惚れて生きていますから、{{愚かな人間}}ですが、自分で気づいていないのだから悲しいものです。
人生では、誰もが、少しでも立ち止まり<<自分の過去>>を見つめる事、「「こころ洞察法」」=「「マインドサ―チセラピィ―」」を体験下さいませ。